島根県の北にあって、約180もの島からなる隠岐諸島。その中の海士町(あまちょう)のキャッチフレーズは『ないものはない』。都心のように便利なわけじゃないけれど、自然の恵みは潤沢で、暮らしに必要なものは充分ある島だという意味が込められています。そんな海士町で、魚や野菜、島の恵みを生かしたイタリアンレストランを開くべく、Iターンしたのが桑本千鶴さん。そのスタートは、短大の卒業旅行で出会った「とあるパスタ」だったそうです。
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パスタのおいしさに感動、料理の世界へ
――隠岐は、観光にも魅力的ですね。後鳥羽上皇が祀られた隠岐神社や隠岐ユネスコ世界ジオパークなどスポットが盛り沢山です。
ありがとうございます。海士町は人口が2350人ほど(2018年5月、海士町勢要覧資料)の小さな町で、高校卒業後は都会に出ていく人が多いんです。私も家庭科の教師を目指して、愛知県の短大に進学しました。
そして短大の卒業旅行で訪れたヴェネツィアで、パスタのあまりのおいしさに衝撃を受けたんです。魚介のうま味をすごくダイレクトに感じましたね。隠岐もヴェネツィアと同じく、新鮮な魚介がたくさん獲れるところだから、きっとこれくらいおいしいものを作りたいと思って、いつかお店を出そうと決意しました。
――それでイタリアンのシェフになったんですね。開店したのはいつごろだったんですか?
来年で、開店10周年になります。お客様には、その日の私がベストだと思う食材でお料理の流れを楽しんでほしいので、メニューはコースだけです。ここがいちばんのこだわりですね。4000〜8000円代のコースとを用意しています。
――コースの内容はどうやって決めているんでしょうか。
町内や島のお客様には、メインの肉料理に羊や仔牛などを使って、普段あまり食べられないようなものを。島外からいらっしゃる方には、島の食材を生かしたメニューを考えて、毎日コースを組み立てています。例えば今ならサツマイモが旬の時期ですが、形の悪いものもうまく使って、フードロスが0になるよう工夫しています。
――コロナ禍では観光客が減って、大変だったんじゃないですか?
影響はありましたが、テイクアウト利用などで、本当にたくさんの地元のお客様に助けられました。開店当初は県外の方々をターゲットにしようと思っていましたが、ふたを開けてみると7割は隠岐の島のお客様で。おかげさまで安定的に経営できていて、ありがたい限りですね。
イタリア語が飛び交う職場で感じた、取り残され感
――大成功をおさめている桑本さんですが、どうやって修行されたんですか?
いえいえ、まだまだ大成功の域には達していませんし、修行中の身です! 短大を出て、まずは東京の飲食店で働こうと思って、三越のカフェで1年間働きました。そのあと島根県の松江で修行先を探していたところ、たまたま入った洋食屋さんのホワイトソースがおいしくて。一瞬でファンになって、「働かせてください!」とお願いして修行がスタートしました。当時の料理の腕前は、家庭科の授業レベルだったと思います(笑)。
――飛び入りですね!そこでどのくらい修行したんですか。
6年間です。働きながら、月に2回ほど東京に行ってイタリアンの名店を食べ歩き、勉強しました。そんなある日、東麻布でまた衝撃的においしいイタリア料理店に出会ったんです。パルメザンチーズのフリットや、ウナギの稚魚のガーリック焼きが最高においしくて……。私もこんな味をつくれるようになりたいと思い、そのお店に移ることにしました。
――いつも、ご自分で出会った「衝撃の味」がモチベーションになっているんですね。
その後、新宿の伊勢丹会館にあった南イタリア料理店を経て、そこの系列だった丸の内店に移ったんですが、そこのスタッフ4人がみんなイタリア語でペラペラ会話してたんです。
みんな私と同世代でしたが、イタリアで一緒に働いた経験もあるという仲間同士で。仕事中は緊張感がみなぎっていましたし、私だけ取り残されちゃってる感があって……。それで、やっぱり私もイタリアで修行したいなあと思うようになりました。
――それが、イタリアに渡るきっかけだったんですか。
はい。週休1日でアルバイトを詰め込んで、お金を貯めました。同時にイタリア文化会館に通って、イタリア語の日常会話と現地の調理用語を身につけました。
イタリアはすぐ「大好きな場所」に
――念願のイタリア修行は、どうでしたか?
ビザの関係で、初めはフィレンツェの語学学校に入りました。1年後に系列の料理学校に移り、先生のもとで働きました。お給料は月10万円ぐらいでしたけど、すごく充実してました。
料理好きのおばあちゃんの家にホームステイをして、毎日前菜とパスタを食べさせてもらっていたんですが、これがすごく優しい味で、おいしかったんです。東京で感じた「取り残されちゃった感」が悔しくて行ったイタリアですが、行ってから本当に大好きな場所になりました!
――食以外の日常生活も、日本とは全然違いますよね。
そうですね。イタリアで暮らして、ジェンダーや年齢、パートナーに対する価値観はガラッと変わりました。イタリアで一緒に働いていたシェフはゲイでしたし、ホームステイ先のママが若い彼氏を連れていて、すごくかっこよかったんです。事実婚のまま、10年来のパートナーがいるなんて普通でしたよ。
――すっかりイタリアに馴染んで、日本に戻るのは名残惜しかったんじゃないですか?
そうですね。でもビザが切れたタイミングで日本に戻り、いよいよ自分で店をやるんだという意欲に燃えました! イタリアで出会った「衝撃的においしいイタリア料理」を、島の食材を使って再現してやるぞと。
じっくり時間をかけて、島に溶け込んだ
――帰国されてからすぐ、お店オープンに向けて準備を進めたんですか?
いえ。イタリア料理をつくれるだけではお店は開けません。パンとケーキもつくれるようになるため、東京のドンクでパンを2年間、渋谷のビオカフェでデザートづくりをを1年間、修行しました。
――確かに、イタリアンにはパンとデザートがつきものです。
そのあとようやく島に戻り、さらに3年かけてお店の場所を探しました。並行して、実家の商店でパンを売ったり、島民の忘年会にケータリングを出したりして、島にすんなり溶け込めるよう準備しました。この準備期間があったからこそ、島のみなさんに私の意気込みやイタリアンへの想いを知ってもらえたと思います。
――桑本さんはオーナーシェフという立場。資金計画や経営についても、一人で考えたんですか?
商工会議所から融資を受けるために、自治体がやっている起業支援の勉強会に参加しました。無料で細かく資金計画を見てもらえたので、すごく助かりましたよ。
――準備期間を経て、いよいよ開店ですね。
たまたま実家の近くで土地が売りに出されたのを見つけて、すぐに押さえました。その日からお店づくりを進めていって、2013年7月、全16席の小さなお店をオープンすることができました。
料理の道に入って約25年になりますが、親からあれやこれや言われたことはまったくありません。これは、今思うと本当にありがたいですね。
――日本の小さな島で、本格的なイタリアンのお店を出すなんてすごいことですね。
隠岐で本格イタリアンのお店は本当に珍しく、重宝していただいています。これからも島民の方はもちろん、観光客の方にも「衝撃のおいしさ」を届けていきたいです!
桑本千鶴●(くわもとちづる)Radice シェフ。隠岐郡海士町出身。短大時代にイタリアで食べた魚介パスタに衝撃を受け、『地元でイタリア料理の店を開く』という夢をもつ。松江・東京での修行を経て渡伊。フィレンツェでトラットリア(軽食堂)を任されるまでに。2009年故郷の海士町に戻り、2013年7月10 日、長年の夢である自分の店をオープンする。好きな言葉は『La vita e Bella !!!!人生を楽しむ!』