大阪で開催された音楽イベントに参加した韓国出身のDJ SODAさんが、パフォーマンス中に観客からセクハラを受けたことをSNSに投稿。「あまりにも大きな衝撃を受けた」と赤裸々に告白した彼女に対して、「日本人として恥ずかしい」「自業自得」等、様々な声が寄せられています。
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韓国人DJによる、日本でのセクハラ告発
……At that moment, not only one but also several people suddenly touched my chest and I was helplessly sexually harassed by them..
I was so surprised and scared, but there were fans who liked me and also cried a lot, so I tried my best to finish it imperturbably. Now I'm back at the hotel however I'm still very scared, and I've never ever experienced anything like this in my 10 years as a DJ.――DJ SODAさんのSNSより抜粋
2023年8月13日に大阪で開催された「MUSIC CIRCUS’23」に出演した、韓国出身のDJ SODAさん。パフォーマンス終盤に観客席に近づいた彼女は、身を乗り出した男女の観客から胸を触られる、腕を強く引っ張られるなどの被害にあったとSNSで告発しました。
「とても驚き恐怖を覚えたが、私のことを好きでいてくれるファンがいたので、パフォーマンスはなんとか最後までやり切った。でも今でも私は恐怖で怯えているし、10年DJをやっていてこんなことは初めてだった」
この投稿には現時点で、10万以上の「いいね!」と、5000件以上のコメントが。「せっかく公演しにきてくれたのに残念」「日本は痴漢大国だ。恥ずかしい」「反日か?」「そんな肌を露出した服を着ているのが悪い」「“10年やってきて初めて”なんてウソばっかり」……賛否両論の意見が飛び交い、コメント欄で激しい口論も発生。タレントやメディア関係者がSNSでコメントを出しては、炎上騒ぎになる事態が起きています。
止まらない「被害者叩き」から見えてくるもの
寄せられているコメントを大別すると、3つのパターンになります。
- 「とにかくセクハラはダメ!」
- セクシーな服装や観客席に近づいたことから、DJ SODAさんに自己責任を問う
- DJ SODAさんは悪意を持って日本を攻撃していると主張する
DJ SODAさんは、「私は好きな服を着る自由がある」「反日感情から告発をしたと言われているが、私は日本が好き」等と、反論コメントも投稿。イベントの運営会社は不同意わいせつを刑事告発し、容疑者の男女は既に事情聴取を受けているとのこと。
この騒動から見えてくるのは、日本人が「ダイバーシティ」に対して感じている鬱憤。
痴漢やセクハラに悩まされてきた女性は「よくぞ言ってくれた!」と声を大にし、加害者予備軍扱いにうんざりしている男性は「日本の男は……という話に持っていくな」「そんなに肌を露出している女が何を言う」といきり立つ。
日韓関係を巡る微妙な国民感情もここぞとばかりに噴出しているように見受けられます。文化交流などで互いの良さを賛美しあっている分には平穏ですが、相手から攻撃されると過度に防御的になるのは、日韓ならではかもしれません。
若い世代の自由な価値観、自己主張の強さに辟易している人々もいるのでしょう。好きな服(見る人によっては常識を疑うような煽情的・個性的な服)を着て公に登場する人にストレスを感じ、「自業自得だ」「公序良俗に反する」と攻撃したくてたまらなくなった人も見受けられます。
図らずも、DJ SODAさんの事件はそんな日本人の「ガス抜き」の場になってしまったようです。「韓国出身の若い女性」という属性も、言いたいことを遠慮なく言わせてしまうトリガーになっているのではないでしょうか。
「どんな変化を望むか?」を見つめ直す
まず、被害者の目に入る可能性がある場で、関係者でもないのに当人を一方的に攻撃することは厳に慎むべきだと思います。
その上で、こういった事件が起きたとき、自分の心に浮かぶものについて考えてみるのは、アンコンシャス・バイアスや日頃感じているストレスを見つめ直すいい機会なのではないでしょうか。
ありがちなのが、「自分自身(男性としての自分、セクシーな服が好きな女性としての自分、セクハラを流してきた女性としての自分、日本人としての自分……)が攻撃されているように感じてしまい、頑なに自分の正しさを主張したくなる」という心の動き。
客観的に考えれば、そこにあるのは「自分とは直接関係のない、まったく別の事情を抱えた加害者と被害者がいる」という事実。事件と自分を突き放して考えないと、コントロールが効かないドロドロとした毒が自分から飛び出してしまうかもしれません。そうではなくて、自分の心が事件のどんな要素に反応しているかを見定めて、自分の価値観や望みを整理してみるということが大切です。
「あなたがこの世で見たいと思う変化に、あなた自身がなりなさい」というガンジーの言葉があります。
自己責任論が徹底された自衛社会になることを望んでいるのか、どんな人も自分の苦しみを素直に吐露できるようになってほしいのか、性別や服装・国籍で人をジャッジしていい社会を良しとしたいのか。
自分の見える範囲での「正しい」「正しくない」に固執するのではなく、「自分が見たい変化」に沿った言動を心がける。そんな自己一貫性と、周囲の声に耳を傾けられる柔軟性。この2つの相反する要素をうまくバランスすることが、ダイバーシティ社会を生きる上で求められているのではないかと思います。