俳優業の傍ら執筆にも取り組む奥野翼さんが、複数に分岐していく女性のキャリアとライフステージをテーマに小説を執筆。喫茶店「クロス」を舞台に、正解のない人生を迷いながら歩んでいく女性たちを描きます。
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Contents
託された思い
2018年 9月23日
大きな窓に陽射しが差し込む店内で、紬はいつものようにオープン作業をする。マグカップを丁寧に拭きながら、あの朝の景色に浸った。深夜に家を飛び出し、クッキーを焼いたあの日の景色だ。まるで祝福をしてくれているような朝だった。以来、自分にも何かできることがあるはずだと、希望に満ちた日々を過ごしている。紬はマグカップを置き、意識を今に戻して時計を見る。11時。もう少しで正樹さんがお店に来る頃だ。
すると、ポケットの中で携帯が鳴った。
「……はい。槙原です」
聞き慣れない男性の声が受話器越しに響いた。名乗りのあと、病院名と、正樹さんの名前が続く。状況がさっぱり分からなかった。
「えっ……入院?」
声が裏返る。手にしていたマグカップが少しだけカタリと音を立てた。
「意識はあります。ただ、お一人だけ、お名前を挙げられた方がいまして……槙原紬さん、と」
どうして、私なのか。そんな疑問が一瞬頭をよぎるが、それより先に、身体が動いた。バックから財布だけを取り、扉を開けた瞬間、涼しい風が入り込み紬の首元をかすめた。
そういえば朝、玄関を出たときも、風が秋のにおいをしていた。
電車を待つあいだ、ふとそんなことを思い出した。紬は無心で店を飛び出していた。そして上着を忘れていたことにも気付く。肌寒い駅の風を感じ、荒い呼吸のまま、電車で病院へと向かった。
病室に入ると、窓のカーテンが少しだけ開けられていて、午後の光がベッド脇を静かに照らしていた。正樹さんは、ゆっくりと身体を起こしてこちらを見た。顔色は悪く、少し痩せたように感じたが、それでも目元に浮かぶ笑みはいつものままだった。
「来てくれて、ありがとう。……驚かせたね」
何も言えずにうなずくと、正樹さんはゆっくりと息を吸い込んだ。
「検査で見つかってね。膵臓がんだってさ。ちょっと進行してて、手術が必要らしい。うまくいけば、また戻れるけど……少し時間がかかるかもしれない」
心臓が掴まれたようだった。うまくいけば、の後に続く言葉はなかったけれど、それがどういう意味かは、なんとなく分かってしまった。
正樹さんは笑って続ける。
「まいったよな。急にこんなことになって。でも……クロスを、閉めたくはないんだ。無理は言わない。ただ、できれば——紬ちゃんに、店をお願いしたいんだ」
「……私が?」
咄嗟に声が出た。驚きと、恐れと、ほんの少しの嬉しさが入り混じっていた。
「うん。全部じゃなくていい。最低限でいい。コーヒーが淹れられなくても、クッキーが焼けなくても……店の灯りを絶やさないでほしい。それだけで、充分なんだ」
一点を見つめながら語る正樹さんが、このままどこか遠くへ行ってしまうのではないかと不安になった。波打つ心臓を落ち着かせながら、正樹さんをじっと見つめる。
「1週間……いや、もしかしたら、もう少しかかるかもしれない。申し訳ない。でも、お願いできるかな?」
紬は頷いた。怖さも、不安も、全部あったけれど、それ以上に、正樹さんの大切なものを守りたいと思った。私にとっても、喫茶クロスや正樹さんは大切な存在だから。
焦げたクッキー
正樹さんのいない喫茶クロスは、想像以上に広く感じた。正樹さんが日々コーヒーを淹れる仕草や、お客さん一人ひとりに優しく寄り添う姿が、この店に染み込み、大きな愛に包まれていることを改めて感じた。
クッキーを焼くタイミング、豆の挽き具合、お湯の温度。何度も教わってきたはずなのに、独りの店内で何かがずれていく。紬の背中には汗がにじむ。
オープンから2時間が過ぎ、ポツリポツリとお客さんが来店し始めた。
すると近所の常連の女性が言う。
「……あら、今日は紬さん一人?正樹さんは?」
「あの少し……体調を崩してて。しばらくお休みされます」
「そう……じゃあ、今日は紬さんが全部やってるのね」
そのひと言に、責任がずしりと肩にのしかかった。コーヒーを淹れながらも、どこか動きがぎこちなくなる。クッキーが少し焦げてしまった。
「……あ、ごめんなさい。すぐ作り直します」
なるべく笑顔を絶やさず言ってみせるが、指先はわずかに震えしまう。自分では平気なつもりでも、焦りが心を揺さぶり、すべてが乱れていった。
その日の夕方、たまたま来店した緒方さんが静かに苦笑して言った。
「なんだか、今日はちょっと……落ち着かないね」
その言葉に悪気はなかったはずだ。でも、紬の胸にはまっすぐと突き刺さった。
「すみません、慣れなくて……」
「いや、そういうんじゃなくて。悪く思わないで」
そのあとも、うまく会話が続かなかった。緒方さんは気遣っていたが、それすらも重くのしかかり、心が閉ざされていく。仕事に戻るねと、緒方さんはすぐに店を後にした。ものの30分ほどだったが、紬にとっては長く感じた。
店を閉めた後、紬は店の隅にしゃがみこんだ。深呼吸をしても、胸の奥は重たいままだった。それでも、あの病室で見た正樹さんの笑顔を思い出しながら、なんとか立ち上がる。
紬は店を出て、とぼとぼと街を歩いた。街の灯りがいつもよりも眩しく、力強く映った。たったの一日お店に立つだけで、ここまで打ちのめされた弱い自分が嫌いになりそうだった。唇を噛みしめ、秋風に向かって、また歩き出した。
頑張ろうとしただけなのに
家に帰ってもクッキーを焼く気にはなれず、ただ茫然とソファへ横たわった。正樹さんは大丈夫だろうか。喫茶クロスは正樹さんの大切な場所で、その場所を私も一緒になって守ることが、本当に出来るのだろうか。頭の中でネガティブな感情がぐるぐると回る。
そのとき急に、スマホの通知が鳴った。
《あなたへのおすすめ記事:SNSで話題「飛び降り自殺の本当の理由は?」》
なんとなく開いたその記事にざわつく。
──都内の美術大学に通っていたとされる女子学生Aさん。
──心の弱さが原因との声もあり、SNSでは「勝手に飛んだだけ」「才能もなかったくせに」などのコメントが相次いでいる。
目の前が歪んだ。記事の内容は、憶測と心無い言葉で満ちていた。穂乃果ちゃんの名前こそ伏せられていたが、通っていた大学、年齢、状況……どう考えても、彼女のことだった。
指先が震える。呼吸が浅くなる。
「違う……穂乃果ちゃんは、そんな子じゃない……!」
そう思っていても、画面の中の言葉が、嘲笑のように紬の心を削っていく。自分の無力さが、また胸を突く。
なぜ今、こんなタイミングで。必死にやろうとしているのに。もう一度、頑張ってみようとしただけなのに。ソファに深く堕ちていく。涙が止まらない。世界には私独りだけなのか、そんなことはないはずだ。そんなことはないのだ。なんとか踏ん張り再起を図ろうとした紬の心のすべてから、永遠に涙が止まらなかった。
私が誰かを喜ばせ、癒すことなどできるのだろうか。穂乃果ちゃんを失ってから、取り巻く環境に委ねるしかできなかった私。人とは深く関わることのないように。いつかはまたどこかへ飛んでいくのだから。それでも生きねばならないから。そう心に何度も言い聞かせてきた。
強くなるのだ、そう誓った夜だってきっとあった。もう何度も何度も。
しかし昔の傷は癒えることなく、傷を拭おうと必死になった末、パニック障害という分かりやすい形で私の目の前に突如あらわれた。良好な人間関係を持ち、大切な相手を持ち、自信に満ちた人びとを、対岸から羨み指を咥えているだけの人間は終わりにしたかった。ずるい人間にはなりたくない。真向に自分の人生に向き合いたいのだ。
——どのくらい経っただろうか。泣き疲れてお腹が空いたので、深夜のコンビニに立ち寄った。レジ横のホットスナックコーナーに、たこ焼きが並んでいる。無意識に手が伸びたとき、店内の冷蔵棚に並ぶメロンソーダが視界に入った。
「私たち、幸せになろうね」
あのとき二人で笑いながら口にした言葉が、唐突に蘇った。
「私は、まだ……ここにいる」
呟いた声は、初秋の夜にかき消されたが、その心は静かに灯り続けていた。









