「振り返れば、私のキャリアはパラキャリから始まってます」と語ってくれたのは、長年ホスピタリティ業界の第一線で活躍している浅生亜也さんです。アメリカの大学を卒業後、ピアニストとして演奏活動をしながら、ロサンゼルスのホテルに就職したところからキャリア人生がスタートしているんだとか。その後も、50軒近いホテルを経営・再建したり、米国公認会計士(CPA)の資格やMBAをとったり、直近ではSAVVY Collectiveを創業したりと、どんどん新しいことにチャレンジしています。浅生さんの、尽きることのないモチベーションは、いったいどこからくるのでしょうか?
Contents
大学卒業後、パラキャリからすべてが始まった
――現在はホスピタリティ業界の第一線で活躍されていますが、元はピアニストだったとか?
大学生の時は、音楽家になる道以外のキャリアは考えていなくて、ピアノ一筋。卒業後はシェラトングランデ・ロサンゼルスというホテルのフロントで働きながら、ピアニストとしても活動していました。だから、私の原点はパラキャリにあるんですよね。
当時、ホテルの同僚もみんなパラキャリしていて、複数の仕事を持つのは普通のことだったんです。レストランで働きながら俳優をしているとか、ホテルのフロントで働きながらフルートを吹いているとか。
――就職先として、ホテルを選んだのはどうしてですか?
大学を卒業してからの私は、ひたすらピアノと向き合っていて、ほとんど人と話さない毎日でした。だから、何かしら人と接する仕事をしてみたいと思っていた矢先、たまたま「英語と日本語をできる人、募集」というホテルのアルバイト求人を見つけて、応募したのがホテル業界との出会いです。
初日の配属は電話交換手でした。そして予約担当へ、セールスマネジャーへ、バックオフィスへ、と進んでいくにつれ、仕事がどんどん面白くなっていったのを覚えています。
――ずっと、アメリカでキャリアを積まれたんですか?
いえ、幼少期と合わせて海外生活が20年近くになったころ、そろそろ故郷の日本に帰りたいなあと思うようになりました。そしてちょうどそのときの上司が、舞浜シェラトングランドに異動すると聞いて。私のポジションをつくってもらって、日本に帰ることにしたんです。それほどホテルの仕事に惚れ込んでいたので、仕事としてのピアノはこのとき諦めました。
「言葉」と「数字」、2つの壁がキャリアの転機に
――ホテル勤務から経営側へのキャリアアップはどのように?
転機は、ホテルで働くうちに「言葉」と「数字」という2つの壁が現れたことです。ずっとアメリカにいたので、難しい日本語ができなくて、会議でのディスカッションについていけなかったんです。数字に至っては、桁を読むのにさえ苦労していたレベル(笑)。これじゃ社会人としてやっていけないと思って、まず米国公認会計士(CPA)の資格を取ることにしたんです。英語で受けられるし、CPAを取れば法律も財務も理解できるだろうと。
――CPAなんて、超難関資格を……!
いったんホテルの仕事は辞めて、勉強したら無事CPAに合格できました。監査法人で監査の経験を積んで、その後ホテルを再生運営する会社に転職しました。私ならではの現場経験を生かして、ホテルの価値を上げる改善・改革を手がけてみたいなと思ったのが志望動機でした。
――現場経験があるのは大きな武器ですね!
当時の日本は「失われた10年」の末期。不動産価格が底値だった時代で、たくさんのホテルが外資系企業、いわゆる「ハゲタカ」に買われていきました。買い手にすればバーゲン状態で、おいしかったでしょうけど(笑)、ホテル業界の人たちの顔が沈んでいて……。現場出身の私にはそれが辛くて、みなさんがワクワクしながら楽しく仕事をする、素敵なホテルに変えていきたいと決意しました。これが、今の私の出発点です。
MBA取得で「劣等感から這い上がれた」
――ホスピタリティ業界にたどり着いた浅生さん。ここからどうやって、今に至るんでしょうか。
このホテル会社には3年半いて、23軒の再生を手がけました。でもだんだん、自分の知識不足から、現場感覚とのギャップを感じるようになっていきました。振り返ればそれまでの私は、ピアノ一筋の人生に数字の知識が乗っただけ。これじゃ心許ないのでMBAをとって体系的にビジネスの勉強をしようと思いたって、仕事を辞めて大学院に入りました。
――MBAですか!CPAに続き、ハイレベルな挑戦を……。
入ったのはイギリスの大学院の日本校でしたが、授業も修士論文も日本語が必須。私にとってはものすごい難関でしたが、逆にこれにチャレンジすることでいろんな壁を乗り越えられる気がして。そこから2年間、ひたすら日本語をやり直しました。論文を添削してくれた夫には、毎回けちょんけちょんに言われましたが(笑)、書き上げた時にはものすごく達成感がありましたね。大学院の勉強を通してようやく、それまで経験してきた成功や失敗の意味が、うっすら見えました。
――MBAを取ったところから、どうやってホテルの経営を始めたんですか?
大学院に入った年のある日、知人から「長野のホテルを再生してほしい」というお話をいただいて。アゴーラ・ホスピタリティーズ(以下、アゴーラ)を起業して、腰を据えて取り組むことにしました。
授業で勉強したことをすぐ実践に移せてすごく楽しかったですよ。教科書に書いてあることが全部、打てば響く太鼓みたいに、仕事の成果に表れるんです。コミュニケーションの取り方やチームのつくり方も、MBAで学んだフレームワークが役に立ちました。アゴーラもどんどん育って、10年で13軒のホテルを経営するまでになりました。
――資格の勉強とビジネスの現場経験が両方あって、今の浅生さんをつくっているんですね。
私はいつも、壁に突きあたるたびに「自分に足りないもの」を思い知って落ち込んできました。ただ私は、劣等感を劣等感のまま放置することができないんです。頑張ってCPAやMBAを取ることで、その劣等感から這い上がって、結果的に壁を乗り越えてこられたんだと思います。
2017年にアゴーラを退任して、ホテルの運営や開発、ブランディング、マーケティングをするSAVVY Collectiveを立ち上げましたが、今も私の「劣等感を放置しない、できない」という柱は変わりません。
「よく眠れる」軽井沢に魅せられて、東京と2拠点生活
――浅生さん、2016年に軽井沢との2拠点生活を始められたんですね。
アゴーラの事業所が軽井沢にあったので、2014年ごろからよく行っていたんです。軽井沢では東京よりも仕事に集中できるし、何よりよく眠れるなって気づいて、思い切ってライフスタイルを変えてみました。
――リフレッシュできるだけじゃなく、仕事もはかどるんですね。
はい。ホテルのラウンジに座って森を見ながら考えていると、次のホテルのコンセプトがパラパラ降りてくるんですよ。今注目されているワーケーションも、同じ発想ですよね。みなさんもぜひ、世の中が落ち着いたら、オフィスや自宅を飛び出して日本中で働いてみてほしいです。移住はハードルが高いと思うので、ワーケーションや2拠点生活から始めてみてください。
――ワーケーションに注目されたきっかけは?
私自身がワーケーション大好きで、その魅力をもっと広めたいと思ったからです。2020年に起業したPerkUPでは、企業のオフサイトミーティングの場所とコンテンツをマッチングするサイト“co-workation.com”を運営しており、今夏にローンチ予定です。コワーケーションを通して、みんなが働きながら元気になれる場をつくっていきたいです。
1人で「100%の仕事」ができなくてOK
――力強く前に進んでこられた浅生さん、かっこいいです!
とくに20〜30代の女性はどうしても、ライフイベントのことを先読みしがち。就職や転職、昇進に際しても、「本当にやっていけるかな」「責任を取れるかな」と尻込みしちゃう人が多いです。でも、自分1人で100%の仕事をやり続ける必要なんてない。仕事はみんなでシェアしたり頼りあったりすることでやり遂げていくものだし、それによってみんなが組織に貢献できるようになると思います。
――若い女性が自分らしく生きられる世の中に、少しずつですが近づいてきているように思います。
まだまだいろんな先入観や「呪い」がありますが、みんなが何にも縛られずに、誰の目も気にせずに、キャリアやライフスタイルを選べる時代にきっとなります。もちろん、特別な能力はなくて大丈夫。若い女性は、何も怖がらずにめいいっぱいパラキャリを楽しんで、いろんなスキルを身につけていってほしいですね。
浅生亜也(あそうあや)●南カリフォルニア大学の音楽学部ピアノ学科を卒業後、ピアニストとして演奏活動をする傍ら、ホテル業界に就職。20年ぶりに日本に帰国した後、一度ホテル業界を離れ監査法人トーマツやPwCで業務プロセスコンサルタントとして従事。2001年よりスペースデザイン、イシンホテルズグループで50軒近いホテルやサービスアパートメントを運営。2007年にアゴーラ・ホスピタリティーズを創業し、国内13施設のホテル・旅館を展開。2011年に現アゴーラ・ホスピタリティー・グループ(東証1部)に吸収合併させ、創業から10年目を迎えた2017年3月に退任。2017年SAVVY Collectiveを創業。ホテルやリモートオフィスの開発およびマネジメントを手がける傍ら、長年の経験を生かし、ホテル業界の後進に経営戦略やペルソナ戦略をベースとしたマーケテイング戦略の分野で教鞭を取る。