Paranaviトップ ライフスタイル ジェンダー/フェミニズム 「私は女で損したことはない」、上野千鶴子と鈴木涼美が暴き出す「傷ついた」と言えない女の構造的弱さ

「私は女で損したことはない」、上野千鶴子と鈴木涼美が暴き出す「傷ついた」と言えない女の構造的弱さ

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フェミニズムを語る上で必ず出てくる、「私は女で損したことはない」と主張する女性。彼女たちの心理はいったいどんなものなのか? 「被害者面したくない」元AV女優の作家と、「被害者であることを認められないのは弱さ」と断じるフェミニストの往復書簡から見えてくる、「自己決定」偏重の負の側面とは?

「自分を被害者だと思いたくない」元AV女優・元エリートサラリーマン作家の独白

鈴木涼美さん、という女性をご存じでしょうか? 

1983年に大学教授と児童文学研究者の両親のもとに生まれ、慶応義塾大学卒業後、東京大学大学院に進学。日経新聞社で記者として働きながら、修論を書籍化して作家デビュー。専業作家となり、2022年には初の小説『ギフテッド』が芥川賞候補に。

絵に描いたような、エリート女性の完全無欠なプロフィール。しかし鈴木さんにはもう一枚、これに重なる履歴書があります。

高校時代を「ブルセラ少女(自身が着用した下着を男性に販売する女子学生のこと)」として過ごし、大学時代にスカウトされAV女優デビュー80本以上のAVに出演した経験をもとに、修論を執筆(後に『「AV女優」の社会学』として書籍化)。日経新聞社退社後も、歌舞伎町でキャバクラなどに不定期勤務(現在は卒業)。 

魅力的な容姿と明晰な頭脳という、生まれながら与えられるギフトのうち特にパワフルな2つを同時に授けられた女性。それが鈴木涼美さんという人です。そこに無邪気な好奇心と抜群の行動力というエンジンが搭載され、自身を実験台にしながら社会のゆがみや男性の愚かしさを舌鋒鋭くあぶりだす。鈴木さんの著作がもつ「痛気持ちいい」魅力は、多くの男女を魅了してきました。

踏みにじられた者というレッテルは私たちを退屈で単純なものにしてしまう気がして、邪魔ですらありました。――『往復書簡 限界から始まる』より

学問もキャリアも、そしてセックスすら主体的に選び、取り扱うことのできる特権階級。鈴木さんの立ち位置は、そう呼べるかもしれません。

だからこそ、フェミニズムをテーマに置いて執筆しながらも、自分自身を「ジェンダー問題の被害者」とみなすことには抵抗があったという鈴木さん。しかし、今まさに沸騰するフェミニズムの潮流においては「被害があった」と認めることが、改革の第一歩とされている。ジレンマに陥った鈴木さんに手厳しい言葉をかけるのは、日本のフェミニストを代表する存在である上野千鶴子さんでした。

限界から始まる

『往復書簡 限界から始まる』(上野千鶴子、鈴木涼美著/幻冬舎)

傷ついた時に「傷ついた」と言えない…「自己決定」偏重がもたらす悲劇

 今日ご紹介するのは、上野千鶴子さんと鈴木涼美さんが、「エロ資本」「母と娘」「結婚」「男」などをテーマに言葉を交わす往復書簡。

鈴木さんのデビュー作『「AV女優」の社会学』の書評を上野さんが書いたことで縁ができたという2人。上野さんは鈴木さんの動向にずっと注目されていたそうですが、この往復書簡の企画が持ち込まれたときには「鈴木さんの方が嫌がるでしょう」と編集者にくぎを刺したといいます。

 そんな経緯からも垣間見える通り、2人のやりとりはテーマ選びも言葉選びも容赦ありません。「上野さん、そこまで追い詰めなくても」「鈴木さん、そこまで自己開示しなくても」と読者がひやひやしてしまうほど。 

女が被害者面をするのが許せない、私はあのひとたちと同じではない。私は弱くない……と。そしてこんな女性ほど、男にとってつごうのよい存在はありません。 ――『往復書簡 限界から始まる』より

鈴木さんが「私は被害者ではない」と言いたがるのはウィークネス・フォビア(弱さ嫌悪)であり、「自分は、性別関係なく自分の力で生きてきた」と自負するエリート女性が陥りがちなメンタリティだと上野さんは指摘します。

「宴席には女の子がいた方がいいから」と男性への供物のような扱いを受けても、「女だってだけで目立てていいな」と陰口をたたかれても、子育てで退職した後再就職が難しくても。

優遇されるのは私が有能だから」「私はむしろ女であることを活用している」「全部自分で決めたことだから」そう思い込もうとすることで、「自分は傷ついた」と主張する権利を自ら手放してしまう。それでいちばん得をするのは、社会構造を変えたくない人々。つまり、自分たちにとって都合の良い帝国を維持したいと考える男性たちです。

高いプライドと女性であることの既得権益(しかし有効期限付き)への未練から、「自分は選ぶ側である」と強弁するかたくなさ。被害者であることを認められないのは弱さだと、上野さんは断定します。その弱さを自ら乗り越えられないと、私たちは傷つく権利すら奪われてしまうのです。 

自分で自分に呪いをかける、「ほどほどな鈴木涼美」たちへ

聡明な母との確執、「こいつら(男)には何を言っても無駄」という10代での諦念、知的エリートである自負、妹世代への思い……。鈴木さんは自身の半生を振り返りながら、「自分にかけた呪い」を紐解いていきます。彼女の鮮血が飛ぶような手紙に対して、社会学の先輩として、そして「親戚のオバサン」的立場から、「良薬口に苦し」な解毒剤を与え続ける上野さん。

ご自身の傷に向き合いなさい。痛いものは痛い、とおっしゃい。ひとの尊厳はそこから始まります。――『往復書簡 限界から始まる』より

鈴木さんはあらゆる意味で特別な女性ですが、私も含め「ほどほどに鈴木涼美的な」女性はたくさんいるはずです。ほどほどに賢く、ほどほどに働き、ほどほどに性を満喫し、ほどほどに男性にがっかりしている……。そんな「ほどほどな鈴木涼美」の皆さんへ。「傷を認める勇気」を奮い起こさせてくれる、魂の往復書簡をぜひ手に取ってみてください。

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梅津奏
Writer 梅津奏

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