俳優業の傍ら執筆にも取り組む奥野翼さんが、複数に分岐していく女性のキャリアとライフステージをテーマに小説を執筆。喫茶店「クロス」を舞台に、正解のない人生を迷いながら歩んでいく女性たちを描きます。
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楽しいからいいじゃん
2018年 7月30日
「本当に、最高!って感じだよね」
正樹さんがカウンターで丁寧にハンドドリップコーヒーを淹れている間に、ハスミさんがカウンター越しにできあがった作品の一部を見せてくれた。白くて細い腕の肘から下が少し焼けているように見える。そういえばさっき、2日前は野外音楽フェスへ参戦してきたと言っていたのでそこで焼けたのだろう。
強めに巻かれたパーマの黒髪を右手でくしゃくしゃと触りながら、珍しく今回の作品は自分の中でも納得いくものに仕上がったと、嬉しそうに話してくれた。これまで作品の中で表現できなかった何とも言えない感情たちをほとんどすべて表現できたらしい。紬が喫茶クロスで働き始めてから、毎週月曜日のお昼に会うパワフルなそのお姉さんはいつも生き生きしている。今日は特に嬉しそうだ。
蓮見 香苗(はすみ かなえ)さん。
と言えば知る人ぞ知る映像クリエイターだという。
併せて作家の肩書も持っているようで、年齢は紬のひと回り上の35歳。芸術に疎い紬にとっては会ったままのパワフルな綺麗なお姉さんという印象だが、彼女の作品のトーンはそこそこ暗く、社会で孤立したひとたちやジェンダーなどをテーマとして、愛を描くものが多いらしい。少し重めの内容だよと正樹さんに教えてもらった。
見てみますとは言ってみたものの、わたしは見なくていいかな。と心の中で断っといた。なぜなら重い作品を観たりその類の話を聞いたりするだけで、その内容に影響を受けて心がしんどくなる時があるからだ。わたしの日々が作品に引っ張られてしまう。作品こそは見れずにいたが、「蓮見香苗」を調べてみると有名な人であるのは確かだった。
ハスミさんは東京出身で高校から独学で映像を制作しており、大学では映像を専攻で学びながら自身も芝居をやったり脚本を書いたりしていたらしい。大学卒業後はロンドンへ飛び、23歳のときには初のショートムービー「マリオネット」を現地で制作し、脚本・監督を務めたという。
わたしが仕事を辞めて今ここでバイトをしているちょうどこの年齢で、ハスミさんはロンドンで作品を作って芸術家としてのスタートを切っていたと思うと恐ろしい。今はロンドンから日本へ戻り各所で映画や映像作品を作っているとのことだ。近年のSNS普及により、これまで知らなかった層の人にも蓮見香苗の名は広まっている。その証拠にハスミさんと初めて会った日、二人組みの女性客から話しかけられていたのを見たことがある。
いつもインスタ見てます!
本当に好きなんです!
この前の映像、すごく素敵でした!
実際に会えるなんて思ってなかったです!
笑顔で気さくに応じるハスミさんは、ネットで見る蓮見香苗の顔になっていた。あの日以来、紬にとってハスミさんは有名人のそれにしか見えない。それでいて性格も見た目も素敵で仕事もかっこいい。こんな女性になりたいなと思うよりも先に、私はこんな素敵な女性にはなれないなと思う。どう頑張っても今世では無理だろう。
芽生えてしまった“あの”気持ち
「ハスミさん、この映像ほんとに素敵です!」
「でしょ~?つむちゃんいつも褒めてくれるよね、ありがとっ」
ハスミさんは紬のことをつむちゃんと呼ぶ。紬はそれがとても嬉しい。
「いつも人生楽しそうで羨ましいです。わたし、ハスミさんをずっと応援していますからね!」
人生楽しそう、ね。ハスミさんが何か言いたげな顔で呟いた。
コーヒーを一口飲んで、少女のような瞳でこちらを見て言う。
「2日前に大学の友達とフェスに行ったとき思ったの。早いうちに結婚しておけばよかったかもって。あたし以外みんな結婚して子どもがいるんだよ。子どもが小学校に行くようになって自分の時間ができたタイミングでみんなで集まったの。ま、あたしはずっと自分の時間を生きてるんだけどね」
そんな話をされるとは思わず紬は拍子抜けたが、なるべく驚いたような顔を見せないように、その少女のような瞳をじっと見つめて話を聞くことにした。
「結婚をして子どもを産んで、みたいな人生を選ばなかった代わりにたくさんの作品を創ってきた。20代の頃なんて特に、お金にならないことを必死にやって、でもそれがいつかあたしを救ってくれる何かになると信じて奮闘していたし。結果その種蒔き期間は無駄じゃなかった。でも、あたしがそうやってる間に同じ学校で夢を追ってたはずの仲間たちは、恋愛だとか結婚だとかを理由に仕事を変えた。今や子どもとか家族が自分の幸せだとか言ってるし。家族がいる母になった友達に囲まれると、やっぱりなんか揺らぐよね。結婚とか子どもとか、自分のプライベートの幸せを追い求めなきゃいけないのかなって。でもこの選択をしたことで生まれた作品たちやこの人生は、本当に大切なものだし。だから、あたしは間違ってなかったの」
そう、あたしは間違ってなかったの。ハスミさんの少女のような瞳におびえた曇りが走った。
独りだったのかもしれない。このひとは、ずっと独りでここまできたのかもしれない。人生が楽しそうに見えたのは、ロンドンでも日本でもどこでもずっとそうしていたから。誰にも察されないように、反復練習のように、ずっとそう演じてきたから。そうやって強くいなければいけなかったから。創りたいものが目の前にあったから。自分の呼吸が荒くなるのがわかる。紬は鼻でゆっくり空気を吸いながらハスミさんの話を聞き続ける。
「なんとなくあるじゃん、母親から孫の顔を見たい的な圧。あれもおかしいよね。まー娘が産んだ子どもを見たいという単純な気持ちなんだろうけど。てか、なんで女だけしか子ども産めないんだろうね?おかしくない?どんだけ自分のための勉強をして夢を追ってきたと思ってんのよ。女ってだけで、それらをある年齢から諦めて子どもを産む準備に入るわけでしょ?じゃあ結婚せずに勝手に生きなよって言われるだろうけど、勝手にしてきた結果今、あたしだってやっぱりプライベートの幸せは欲しいの。生涯寄り添えるようなパートナーは居たほうが安心だし、子どもだってできるものなら産んでみたい。2日前にその気持ちが芽生えちゃった」
止まらない。いつものハスミさんとは違う、心の中に留まっていた感情たちが滝のように溢れ出している。人間らしさがちゃんとあって安心した。
「こんなことをずっと考えているのに、愛をテーマにして映像を撮っているあたしは本当に矛盾しているわね。それもこれも人生のタイミングに任せろってことかしら」
わたしはどうなるんだろう。ハスミさんの話を聞きながら紬は思う。ハスミさんほどの夢はもちろんない。表現をしたいとも思わない人たちは、ただ生きているだけなのだろうか。将来を考えると決まって大学時代の親友の顔が浮かぶ。彼女には夢があった。わたしはそれを誰よりも応援していたが、彼女はもういない。わたしだけ一人、彼女の選ばなかった人生を歩いている感覚になる。
「それでもあたし今幸せ。一方的に話聞いてもらっちゃたね。つむちゃん今日もありがとう。今ね、小さな劇場で映画の上映をしてもらうように動いてるから、お礼も兼ねてつむちゃんを招待するね。正樹さんも、来てね」
じゃあ、また来まーす。そう言ってガラス戸を開けて帰っていった。
「人を本質的に覗くことは難しいけど、紬さんはそれができる貴重な人だよね。小腹空かない?クッキー食べる?」
正樹さんが右手にクッキーを持ちながら話しかけてきた。