Paranaviトップ ライフスタイル 暮らし 【小説「喫茶クロス」第4話】栗原 杏奈/28歳・古着屋店員「女はいつまでも弱いまま?」

【小説「喫茶クロス」第4話】栗原 杏奈/28歳・古着屋店員「女はいつまでも弱いまま?」

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俳優業の傍ら執筆にも取り組む奥野翼さんが、複数に分岐していく女性のキャリアとライフステージをテーマに小説を執筆。喫茶店「クロス」を舞台に、正解のない人生を迷いながら歩んでいく女性たちを描きます。
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あの頃を思い出しながら

2024年 8月18日

渋谷駅周辺では今日も様々な工事が進んでいる。久しぶりに来た渋谷は、道路やお店の数だけでなく、外国人の数も増えている気がした。4年前に発生した新型ウイルスによるパンデミックが収束に向かう中、訪日インバウンド政策の一環として、ビザの発給要件が緩和されたことも大きな理由だろう。そして日本は円安になり外国人観光客が益々増加している。

渋谷の交差点ではシンボル的な存在としてあったカフェは改装され、電光掲示板にはAIを使った広告が増えた。ハチ公前は変わらず多くの人で溢れかえっている。ただ、あの頃よく見ていた風景たちは確実に変化を遂げていた。またみんなと他愛もない話ができるだろうか。額の汗を感じながら会場へと向かう。

東京で生きるって、大変だから

2018年 8月2日

『――教論としてあるまじき行為でした。私の考えの甘さから大変なことをしてしまったと重く受け止めています』

ネットニュースの記事によると、推しの地下アイドルに会うために、そして都内でひとり暮らしをするために、28歳の彼女にはお金が必要だったらしい。都内の公立中学校で保健室の先生として働く傍ら、週3回ソープ嬢としての顔を持つ女性教論は懲戒免職になった。

「なんか同情しちゃうよね。確かに教育者としては裏切り行為になるんだろうけど、推しに会いたかったとか、都内に住むための引っ越し資金が欲しかったとか、普通にみんな持ってる願望じゃない?」

薄紅色の髪から覗く切れ長の目にちからが入る。古着屋で働きながら夜は近くのバーでも働く28歳の栗原 杏奈(くりはら あんな)さんは、いつも自分が欲しいものが何か知っているようにみえる。杏奈さんはアイスキャラメラテを写真に撮って一口飲み、また話を続ける。英単語が刻まれている携帯カバーをよく見ると、黒の背景に黄色で【Stay Young(ステイヤング)】の文字。杏奈さんが好きなバンドだろうな。

午前中ゲリラ的に降った雨の後、喫茶クロスの店前には少しだけ水たまりができていた。外は蒸し暑そうで、いつもより人通りは少なめだ。店内では正樹さんがコーヒー豆を焙煎しながら杏奈さんの話を聞いている。紬はトーションでグラスを拭きつつ耳を傾けていたが、杏奈さんと目が合ったのでそのまま杏奈さんの目の前へいく。

「私、東京で暮らすのって本当に大変だと思うの。家賃も高いし税金も高いでしょ。友達とお茶したりランチ行ったり、何かとお金が掛かるもんだし。それに加えて結婚を見据えた相手を探したりしながら、仕事も頑張らなくちゃいけなかったり。私なんてここ最近、親と連絡を取る度に結婚はまだかって言われるのよ。

そんな切羽詰まった状況の中で、推しが居たらどれだけ救われるか。推しに会いに行くためだったらどうにかして時間とお金を費やしたいし。実際それがあるから毎日頑張れるんだよ。この子28歳でしょ?同い年だから感情移入しちゃうな」

杏奈さんの目線が青い空へ移り、またキャラメルラテに戻ってきた。よく見たらTシャツの胸元にも【Stay Young(ステイヤング)】の文字がある。正直紬には、推しに会いたいという気持ちが分からない。これまで何かの熱狂的なファンになったことはなく、それがどれほど人生を支えているか想像ができない。親友がいつも傍にいてくれるくらいの心強さなのだろうか、そんな筈はない。なかなか理解ができないから、紬は猛烈に気になる。

「杏奈さん、Tシャツ可愛いですね。推しのバンドの?」
「そうっ!でももう解散しちゃったの。この前の七夕が最後のライブで、ほんとに悲しくて泣きっぱなしだった」

喪失。
何となくその言葉が頭に浮かんだ。少し深めに呼吸をして続きを聞いてみる。そのバンドは下北沢を中心に活動するスリーピースバンドだという。杏奈さんが推しているボーカルの慎也(しんや)は、25歳で親友を亡くしたらしく、そのことをよく音楽にしていたそうだ。解散ライブはYouTubeでも配信されていたので、杏奈さんが好きなシーンを一緒に見ることにした。

純度100%

暗いステージの真ん中がぼわっと明るくなり、カメラに抜かれた慎也の顔には滝のような汗が流れ、前髪はぐちゃぐちゃだ。汗か涙か分からない滴が、目元をポツリと流れるのが映った。喉仏がグイっと動いた後に喋りだす。

≪もうあと3曲で終わりだね。早いな。みんなありがとう。少し喋らせて≫

と同時に他のメンバーにも照明が照らされ、客席の後頭部がカメラ外にも広がっていることに気付く。

≪言葉って簡単に使えるけど、扱い方難しいよね。ありがとうとか、ごめんなさいとか、頑張れとか、応援しているとか、お前の味方だよとか、幸せだとか、寂しいとか、この気持ちを純度100%で伝えることができたらいいんだけど、僕にはそれが難しくてさ。どうやったって思い通りに伝わらないから。だから沢山歌ってきたつもり。

解散が決まってから色々考えていたけど、ここまで僕たちのバンドが支えられ応援されたのは、伝え続けたからなんだって思う。それが何より大切だった。みんなにこうやって出会えたのは奇跡なんだ。だから、みんなも、会いたい人には今すぐに会って、伝えたいことは拙い言葉でも伝えて、幸せな時は幸せだと口に出して。

そんなもんでよかったんだ。何にも怖いことはない。そんなこんなで人生は続くんだ。みんな本当にありがとう。この拙い言葉たちを、音楽を、愛してくれて楽しんでもらえて僕は、僕たちは今、本当に幸せだ!≫

小さなスマホの画面を見ながら紬は泣きそうになった。熱くなった目元にグッと力を入れてなんとか堪えた。今まで届きそうで届かなかった場所を、ふいに突っつかれ優しく撫でられたような感覚がした。

「辛い日々があっても、このバンドの曲を聞いて頑張れたんだ。本当にそうなの。誰かを応援する人生は私の幸せなの。また泣いちゃった」

そう言って涙を拭く杏奈さんは綺麗と可愛いが渋滞していて、紬は杏奈さんのことがますます好きになった。親友に姿を重ねて少し懐かしくもなった。

「ネットニュースの保健室の先生も、もしかしたら誰にも何も言えない悩みがあって、そんな日々を照らしていたのが推しだったのかもしれないですね。誰かに相談したくてもできなかったのかも」

紬は、杏奈さんの少し濡れた目元を見ながら言った。想像することはできるが、真実は本人しか分からない。結果的に懲戒免職になったということは、著しく信用を失ったということだ。その背景にどんな事情があったかは関係ない。

「なんで推しに会いたくて働いていた彼女は罰を受けて、風俗店に行って楽しむ男性客たちは何も罰せられないんだろう。悪いことはしたけど、なんか変だよね。女の人はただ消費される対象で、いつまでも弱いままなの?私はそんなの嫌だな」

私一人がぼやいたところで何も変わらないんだけどね。杏奈さんはそう言いながら氷の溶けたキャラメルラテを飲んだ。

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奥野翼
Writer 奥野翼

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