Paranaviトップ ライフスタイル 暮らし 【小説「喫茶クロス」第7話】紬の夢 〜東京、36階の夜〜

【小説「喫茶クロス」第7話】紬の夢 〜東京、36階の夜〜

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俳優業の傍ら執筆にも取り組む奥野翼さんが、複数に分岐していく女性のキャリアとライフステージをテーマに小説を執筆。喫茶店「クロス」を舞台に、正解のない人生を迷いながら歩んでいく女性たちを描きます。
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突然の誘い

2018年 9月10日

それは突然だった。

喫茶クロスで働き始めて少し経ったある日、正樹さんとも仲の良いという常連の男性と出会った。20代半ばに見える若々しい風貌のその男性は34歳で、この近くで不動産事業を始めたらしい。忙しい日々の合間に、よくお店へ顔を出してくれていた。

先月紬がお店でパニックを起こしたその数日後の、平穏を取り戻していた営業中、いつものように持ち帰りでコーヒーを買う彼からご飯に誘われた。何度か話をしたこともある彼からの急なお誘いに、紬は首を縦に振った。

東京の夜

揺れ動く人の流れに戸惑いながら慣れない景色の街を歩く。人びとの声やそこらじゅうにあるネオン看板を抜けた先に、大きな建物がそびえ立ちキラキラと光っていた。自分の足がしっかりとこの地面に着いているか不安になるほど高いそれを見て、入り口を探し少し歩いた。

広く薄暗いエントランスを通り、エレベーターホールまで歩くとそこには、見慣れない目元のメイクに少し巻いた前髪、慣れないヒールを履く女が反射して映った。先にお店の前にいるよ、と連絡は来ていたが本当にこの場所なのかと戸惑う顔がまたガラス扉に映る。

ほどなくしてエレベーターの扉が開く。反射していた顔がちょうど半分に割れて、広い赤絨毯が敷かれた長方形の空間が目の前に広がる。鏡に映る姿を自分だと認識するには少し時間が掛かった。扉付近にある沢山のボタンのいちばん右上、馴染みのない36のボタンを押してゆっくりと深呼吸をする。

緒方くん、そう正樹さんから呼ばれている男性からご飯に誘われたが、ご飯というよりは“ディナー”と呼ぶべき場所であった。なにやらドレスコードがあると聞いたので、慣れない衣服を着て普段よりは大人っぽくしてみたつもりだ。明らかに緊張している自分の姿を見て少しだけ恥ずかしくなり、やっぱり断ったほうがよかったと悔やんだ。

緒方さんは人当たりがよく、時間こそ短いが、お店に来るたびに毎回ユーモアと紳士的な振る舞いで仲良くしてくれている。そんな人だからこそ、何を話せばいいのか、どう振る舞えばいいのか、緊張するのだ。気持ちの整理がつかない状態で、エレベーター内はやけに静寂を纏ったまま、優しく紬を頂上の36階まで運んでくれた。

「今日はありがとう。乾杯」

緒方さんはビールを、紬はカシスオレンジを頼んだ。深紫色がオレンジと混ざっていく紬の隣では、綺麗な泡で蓋をされた金色のビールがロウソクの灯りで輝く。

店前で凛として待っていた緒方さんの後ろには、東京の夜景が一望できるほどの大きな窓と、ロウソクで照らされたテーブルで仲良くディナーをする男女ばかりだった。男性と二人で夜ご飯へ行った経験がないので、紬の挙動はぎこちなかったと思う。

営業でも成果を上げ、多くのお客さんを抱える緒方さんは、そんな紬の緊張をひとつずつ解いてくれた。まだ胸の中は、男性と二人という緊張と何とも言えない気持ちが混在しているが、エレベーターで感じた後悔のようなものは少しずつ消えている。乾いた喉にカシスオレンジが浸透し身体じゅうに行き渡る。

コース料理を予約してくれたようで、一杯目のドリンクをネイビーのスーツを着た店員が持ってきて、二人の乾杯を認識した別の店員がすぐに料理を運んできた。料理の説明は難しい言葉だらけで正直よく分からなかったけど、緒方さんは紬に分かるように説明をしてくれた。

夜景の見える大窓に沿った長いカウンターテーブルから店内へ目をやると、流れるような手つきで料理を作るシェフと、大きなお皿を何枚も持ちながらイヤモニを使って広い店内を動き回っている店員の様子を捉えた。都会の喧騒から離れた異空間にある無駄のない動きが、夜景を見るよりも気になった。

そんな紬に緒方さんは、店内を見るよりも夜景を見てほしいと、話を始める。

「夜だから見えないけどあそこ、昼間は富士山が見えるんだよ。で、もう少し手前、東京タワーもあるね」

「え、本当ですね。 すごい。これぞまさに東京だ」

語彙力をなくした紬の横で笑う緒方さんが、あの頃の帰り道と繋がった気がした。それと同時にまた、今はいない彼女の姿を綺麗に記憶の箱から取り出して未来を想像した。

「紬ちゃんは今はカフェで働いているけど、この先やりたいこととか。あ、夢とか。あるの?」

「え、夢ですか?」

ご飯が詰まったのかなんだか分からないが、微弱に心が揺れた。

「うん、好きなことでも。あ、急にそんなこと言われても答えたくないよね。ごめん。紬ちゃんまだ若いし、この先の可能性が無限にあるから気になって聞いてみたんだ。余計なお世話ってやつだった」

緒方さんはそう言って料理に手を付ける。罪悪感を持たせたくないという気遣いでそれとなく次のドリンクを紬にも促してくれたが、この胸の中の気持ちの正体がよく分からなかった。

「私は夢、というか本当に何もないんです。昔からあまり目立たないし、何事も積極的ではないし、特技もないので。好きなことといえば、焼きたてのクッキーとか?ですかね。今こうして東京にいるのも、友達の後を追って来ただけですし。自分の道を見つけて生きている人たちは本当にすごいなって思います。それが私には難しいんです」

東京の大学へ進学を決めた時と、喫茶クロスで働きたいと正樹さんに突発的に言ったこと。自分としては納得しているし、別に卑下することでもないのに、率直に夢のことを訊かれると胸の奥がむず痒くなり、否定的な気持ちになってしまう。何もない、そんなことはないんだけど、何もないのだ。そして見渡す限り輝く人たちばかりの世界が、より自分を何もない人に仕立て上げてくる。

「紬ちゃんは、全部自分で決めてここまで生きて来たんだと、僕は思うな。他人に羨まれる人生でも絶対悩みはあるし、それを見せないように上手に隠しているだけ。ここから見える沢山の光の中に各々の生活があるように、紬ちゃんの人生は紬ちゃんだけのものだよ。難しいなんて思わなくていいんじゃない?夢があることが良い悪いとかじゃなく、ありきたりかもしれないけど、前向きに生きててくれたら僕は嬉しいよ」

「全然、あの、ありがとうございます」

もっと言葉があったはずだけど、紬にはこれが精一杯だった。また心の秩序が崩れてしまいそうだったので、その後からは他愛もない話で盛り上がった。悲しい気持ちで場を暗くするのも嫌だし、それに自然と、高いところから東京の街を見下ろしているだけで心が楽になる感覚があった。

緒方さんの仕事に対する向き合い方や、野望、そして猫を飼いたいけど実家の猫に申し訳ないから躊躇しているとか、キャンプで見た星空が綺麗でよかったとか、紬はどの話も興味深く前のめりになって聞いた。紬も地元で見ていた富士山の話や、大学時代は猫カフェによく行っていたこと、喫茶クロスの窓拭きの時間が好きなことなど、お酒が進むにつれて饒舌になっていた。店員さんがお会計を促すように緒方さんの傍に来た時、時計の針はとっくに23時を回っていることに気付く。

エレベーター内の赤絨毯が程よい弾力で紬の足元を支えてくれた。数時間前までは緊張で張り詰めた空気だったエレベーターは、帰りには穏やかな時間が流れていた。

「ありがとうございました。私少し喋りすぎたかもしれないです。明後日から出張でしたっけ。気を付けてください」

「むしろ色んな事を聞けて良かった。こちらこそありがとう。出張から帰ったらまたお誘いするね。予定が合えば是非。じゃあ、おやすみなさい」

「連絡待ってますね。おやすみなさい」

紬は深く腰を折ってそれに合わせて緒方さんも手を振り、二人は駅の東と西側へ別れた。終電までは時間があるので駅のホームで1本電車を見送ってから帰ろうと思い、比較的空いているホームの椅子に座る。ゆっくりと時間をかけて今日のことを振り返る。最近は身の回りで起きることに着いていくので精一杯だった。だけど少しずつではあるが、自分の人生を描き始めているのかもしれないと、酔いで鈍くなった頭を働かせ考えた。この気持ちはなんだろうか。

最終電車を知らせるアナウンスで意識が現実へ戻り、さっきまで見下ろしていた東京の地下を走る電車は、時刻通りに多くの人生を迎え入れ、また走り出した。

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奥野翼
Writer 奥野翼

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