Paranaviトップ ライフスタイル 暮らし 【小説「喫茶クロス」第8話】早川 沙耶/32歳・シングルマザー「子どもがいない時間が、わたしの魔法の時間」

【小説「喫茶クロス」第8話】早川 沙耶/32歳・シングルマザー「子どもがいない時間が、わたしの魔法の時間」

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俳優業の傍ら執筆にも取り組む奥野翼さんが、複数に分岐していく女性のキャリアとライフステージをテーマに小説を執筆。喫茶店「クロス」を舞台に、正解のない人生を迷いながら歩んでいく女性たちを描きます。
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魔法の時間

2018年 9月16日

紬は朝日を背中に浴びながら、丁寧に窓を拭く。喫茶クロスのガラス窓は、紬が雑巾で拭くたびに一段と輝きを取り戻していく。大きな交差点に面したこの場所は、人通りが多いのはもちろんだが、車通りが多い場所でもあるので、排気ガスや砂埃が店の外窓に付着し汚れていく。少しだけ窓が曇って見えることがあるので、外から雑巾で拭くようにしているのだ。

薄暗い店内に差し込む朝日が、磨き上げた窓やカウンターを優しく照らしている。紬は開店前の準備をしながら、ふと自分の手のひらを見つめた。自分の手で誰かを喜ばせたい——そんな想いが、朝の澄んだ空気の中で静かに芽生え始めていた。

いつものように正樹さんが淹れるコーヒーの香りが店内に満ちていく。今日は天気のいい日で、オープンから沢山のお客さんが足を運んでくれた。

お昼のピークタイムが終わる頃、ガラス扉の向こうから、常連客の沙耶さんがふらりと現れた。沙耶さんの髪は、肩につくくらいで後ろでゆるく束ねられていた。いくつかの後れ毛が頬にかかっていて、朝の忙しさの名残のようにも、彼女のやわらかさのようにも見える。

32歳になる早川 沙耶(はやかわ さや)さんは、幼い子どもを育てながら忙しい毎日を送っている人だ。数年前に離婚を経験し、シングルマザーとして懸命に生きる彼女を、紬は密かに尊敬している。今日はどこか晴れやかな表情をしていた。

「いらっしゃいませ」

紬が微笑んで迎えると、沙耶さんもにっこりと微笑み返す。

淹れたてのブレンドコーヒーをテーブルに置くと、沙耶さんは「ありがとう」と礼儀正しく頭を下げた。その仕草にも心なしか明るさが感じられる。カップを両手で包み、ひとくち熱いコーヒーを飲んでから、彼女はぽつりと言った。

「子どもがいない時間が、わたしの魔法の時間なの」

夏の光に溶けるような柔らかい声音だった。

魔法の時間。紬はその言葉を胸の中で静かに反芻した。子育てに追われる日々の中、自分だけの時間が持てることの尊さを噛み締めるように、沙耶さんは静かに微笑んでいた。紬が「素敵ですね」と小さく相槌を打つと、沙耶さんは照れくさそうに笑って続ける。

「また描けると思ってなかった。けど、描いてみたら、自分の中にちゃんと残ってた。」

「また……?」 

沙耶さんの話を聞けば、子どもが眠っている間や預けている間に、久しぶりに絵筆を取ったのだという。元々美大に通い絵を専攻していた沙耶さんだったが、長いあいだ育児で絵から離れていたらしい。思い切って描いてみたら昔の感覚がちゃんと残っていた、と沙耶さんは嬉しそうに笑っていた。その透き通った瞳は、大切な何かを取り戻した喜びで穏やかに輝いている。紬も自分のことのように嬉しくなって、思わず微笑んだ。

沙耶さんの幸せそうな横顔を見つめながら、紬の心に静かな波紋が広がっていく。穂乃果ちゃんが夢見た未来を、私はちゃんと生きているだろうか――親友だった穂乃果ちゃんの面影がそっと蘇る。高校時代、東京の美大を目指して将来を語り合った。紬は誰よりも彼女の夢を応援していた。

あの頃二人で交わした「私たち、幸せになろうね」という言葉。あれから胸の奥の方へしまっていたはずだが、ここ最近は不意に耳元に聞こえてくる気がする。果たせなかったその未来を、今の私はきちんと生きているのだろうか。紬の身体の中心で、小さな問いが灯った。

窓際では、沙耶さんがスケッチブックにペンを走らせている。楽しそうに描くその姿が夏の陽射しに映えて眩しかった。毎日少しずつ描き進め、出来上がったらまた次の絵を描く。忙しい日々の合間を縫ってスケッチブックに向き合う魔法の時間。沙耶さんを見ていると、自分にも魔法の時間と呼べる時間があればいいな、と思った。朝から感じていた想いが少しずつ大きくなってくる。

それから程なく、沙耶さんはスケッチブックを大事そうに抱えて店を後にした。静けさを取り戻した喫茶クロスで、紬はカップを片付けながら、緒方さんに誘われて一緒に食事をした先日の夜を思い出す。帰り道、夜風に吹かれながら肩を並べて歩いたとき、不思議と心が軽くなっている自分に気づいた。恋心かはわからないけれど、あの夜確かに心が軽くなった。緒方さんの穏やかな笑顔と温かな言葉を思い返すと、胸の中に静かな温もりが広がった。紬はそっと息をつく。

夜明け前のクッキー

一日の仕事を終え、自宅に戻った紬はベッドに身体を預けた。夜の静けさの中で、今日出会った笑顔や記憶の数々が次々と浮かんでくる。沙耶さんの晴れやかな笑顔、穂乃果ちゃんとの約束、緒方さんとの優しい時間……。

静かに天井を見つめ、自分の心に宿った小さな光を感じた。朝に芽生えた「自分の手で誰かを喜ばせたい」という想いが、胸の中で静かに膨らんでいくのを感じる。そして、じっとしていられない気持ちが弾け、紬は上着をひっかけて夜の街へ飛び出した。

以前から気になっていた小さな電気オーブンを求めて、閉店間際の家電量販店へ駆け込む。棚に並ぶコンパクトなオーブンを見つけ、高鳴る胸を抑えながらそれを抱えてレジに急いだ。会計を済ませ店を出る頃には、緊張でこわばっていた頬が夜風で少し冷えていた。紬は箱をぎゅっと抱えながら、足早に家路を辿った。

家に帰り、新しいオーブンをキッチンの隅に据え付ける。コンパクトな銀色のオーブンを眺めながら、紬の頭にはひとつのイメージが浮かんだ。誰かの記憶に残る香り、サクッとした音、そして少しの苦味——そんなクッキーを焼いてみたい。紬がパニックを起こしたあの夜の、正樹さんからもらった焼きたてのクッキーの優しい甘さを思い出す。温かなぬくもりと一緒に胸に染みこんだあの味を、今度は自分の手で生み出せるかもしれない。

紬は戸棚から小麦粉や砂糖、バターに卵などを取り出し、静かな台所に立った。ボウルの中で粉とバターを木べらで混ぜ、生地に卵と砂糖を少しずつ馴染ませていく。静まり返った台所に、木べらで生地を混ぜるかすかな音だけが規則的に響いた。混ぜるたびにほのかな甘い香りが鼻先をかすめ、紬の心をそっとくすぐった。

生地を丸めて天板に載せ、予熱したオーブンへ静かに滑り込ませる。

オーブンの小窓から漏れる淡いオレンジ色の光が、暗いキッチンをぼんやり照らした。しばらくすると、部屋に甘く香ばしい匂いがふんわりと広がっていく。バターと砂糖が溶け合う幸せな香りに、紬は胸いっぱいに息を吸い込んだ。心臓がゆっくりと高鳴っていく。小さなオーブンひとつで、空気がこんなにも豊かに変わるのが不思議だった。

やがてタイマーのベルが軽やかに鳴り、焼き上がりを告げる。紬はそっとオーブンの扉を開け、一枚のこんがり焼けたクッキーを取り出した。ほんのりきつね色の丸いクッキーから、かすかに湯気が立ち上っている。それをお皿に乗せ、テーブルに運ぶ。

紬は指先でそっとそれを二つに割ってみた。サクッ。静かな部屋に、小気味よい音が響く。思わず口元が綻ぶ。その一片を唇に運び、ゆっくりとかみしめた。ほろ苦さの奥から優しい甘みがじんわりと広がっていく。紬は瞼を閉じ、その余韻を味わった。

小さなクッキーひとつで、心がこんなにも満たされるなんて……静かな驚きとともに、胸にぽっと灯がともる。まだ誰にも食べてもらえないけれど、これもひとつの一歩かもしれない。初めて自分の手で生み出した小さな幸せに、紬はそっと胸を震わせた。

東の空がほのかに白み始め、薄桃色の朝焼けが空の端に静かに滲み始めている。夜明け前の静けさに包まれ、紬は冷めゆくクッキーを見つめてゆっくりと目を閉じた。遠くで一羽の鳥が鳴く。その澄んだ鳴き声が、甘い香りの余韻と共に静かな部屋にゆっくりと広がっていった。紬はゆっくりと息を吐く。吐息はひんやりとした空気に溶け、まるで明日への小さな祈りのように消えていった。

紬の心には、温かな希望が静かに宿り、口元には笑顔が漏れていた。

夜明けは、もうすぐそこだ。

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奥野翼
Writer 奥野翼

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