Paranaviトップ ライフスタイル 暮らし 累計発行部数100万部突破! 世界が注目する『BUTTER』は何を描いたのか?(後編)

累計発行部数100万部突破! 世界が注目する『BUTTER』は何を描いたのか?(後編)

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柚木麻子さんの長編小説『BUTTER』が、刊行後8年経って世界で大ブレイク中です。特にイギリスでは英国推理作家協会賞(ダガー賞)翻訳部門の最終候補作にもノミネートされ話題に。実際に発生した殺人事件をモチーフにしたこの小説、改めてその魅力を深掘りする第2回をお送りします。

「適量を知る」難しさと愉しみ

「にしても、適量が難しい時代なのかもね、さっきの煙草もそうだけど」――『BUTTER』(柚木麻子/新潮文庫)より

某政治家の「わきまえた女性」なんて言葉が話題になったこともありました。男性を立てて一歩引いた謙虚さが女性の美徳である、という男尊女卑が透けて見えてなんとも不快だったのを覚えています。

そんな男女のポジショニング問題のみならず、現代女性が放り込まれているのは繊細で複雑なパワーバランスゲームのリング。産むか産まないか、家事育児とキャリアのバランス、偉くなるべきかならざるべきか……。人生の配合と濃度をどのように持っていくか、悩まない女性がいるでしょうか。

BUTTER

パスタやご飯、お菓子などとにかくバターの描写も美味しそうな本作。『BUTTER』(柚木麻子/新潮文庫)

『BUTTER』では冒頭から、「適量を知る」というキーワードが随所に覗きます。

なんていうか、絶対に失敗したくない、自分の適量っていうものに自信がない人が増えたんだなって、言ってた。料理ってトライアンドエラーなのにね――『BUTTER』より

料理上手な玲子がホームパーティで振る舞う、ゆで豚・美味しそうなグラタン、炊き込みご飯にお味噌汁。そのどれもがシンプルなのに奥行がある味わいで、料理をまったくしない里佳にはレシピがまったくイメージできません。仕事一筋と決めたら食事はコンビニばかり、「私には味つけの適量も分からない」と自虐する里佳。

しかしそんな玲子も、レシピの適量は分かっても、妊活とそれ以外の生活のバランスがとれない不器用さを抱えています。物語後半でカジマナへの憎悪を募らせ暴走していく玲子は狂気じみていて、適量を見失った錯乱状態という感じ。

その他にも、早く帰ることだけを目標に生きているような里佳の同僚・北村、カジマナの毒牙にかかったとされる男性被害者たち、カジマナが通った料理教室の生徒など、選択肢や可能性が見えていないがゆえにバランスに欠き、適量を探す試行錯誤を放棄してしまっている人々がたくさん登場します。

クラシカルなものも新しいものも、辛いものも甘いものも、高級食材も身近な旬のものも、柔らかさも硬さも、力強さも繊細さも――。正反対のものでも、自分がいいと思えば取り入れ、直感を信じてミックスする。それこそが、料理の醍醐味であり、ひょっとすると暮らしを豊かにする方法なのではないだろうか。それはいわゆるセンスとか、柔軟性とか、知性と呼べるものなのかもしれない。――『BUTTER』より

それぞれの登場人物が抱える生きづらさは、「適量を知らない」ことが理由なのではないでしょうか。料理を通して「適量のはかりかた」を学び、トライ&エラーで勇気を育ててきた里佳はいつしか、自身の傷に向き合い、人生をオリジナルな配合で再構築していく決意を固めていきます。

主人公がたどり着いたのは「あずまやのような家」

何度も何度もどんでん返しが起こり、息もつかせぬスピードで展開していく『BUTTER』。文庫で600ページ近くある大作ですが、易きに流れない柚木さんのストイックな筆致で、ぐいぐい読者を引っ張っていきます。

「この物語はいったいどこに着地するんだろう」そんな不安と好奇心の先にあったのは、正義・善悪がはっきり分かたれた明快なものではありません。

このクライマックスも本当にうまいと思うのですが、印象的だったのは「新しいコミュニティの形」を示唆するシーン。

疲弊した玲子の一時避難所として使われた、里佳の仕事仲間・篠井さんのマンション。玲子の見守り役として里佳は職場の同僚に声をかけ、いかにも現代っ子な2人の後輩がマンションに出入りして、不思議な共同生活を送ることになります。

また、カジマナが逮捕直前まで通っていたという料理教室「サロン・ド・ミユコ」。カジマナの逮捕によりゴシップ記事のターゲットとなってしまい、「有閑マダムの集まり」などと揶揄されてしまいます。しかしその実態は、「力を合わせてフルコースを作る」というテーマのもとに集まる、マウンティングも自己顕示もない女性たちのチーム。

「私たちお互いに、本当に下の名前くらいしか、知らなかった。(中略)知っているのは、それぞれの苦手な食材と好きな食材、ナッペができるとか、フランスにチーズ旅行にいったとか、どこのデパ地下が好きだとか、テーブルセッティングの参考にしている映画はなんだ、とか。そういう断片みたいなことが、私たちにとってはなにより大切なプロフィールなんだ」――『BUTTER』より

篠井さんのマンションで過ごし、サロン・ド・ミユコに潜入した経験から、「居場所づくり」を考えはじめる里佳。カジマナの策略により里佳自身が奈落の底に突き落とされるような出来事の後、里佳は中古マンション購入を決意します。

「すべてを閉ざした空間じゃなくて、出入り自由、カスタム可能、人が集まるのを待っている家というよりは、誰にとっても交差点のような家をご希望ということですね。そうですね、例えば、あずまやのような家」――『BUTTER』より

里佳が考えた、新しいコミュニティの形。人生という戦場からは逃れられない以上、疲れたときに一休みできる場所、お互いいたわりあえる一時避難所のような場所を、自分のため・友人たちのために作りたいと考えたのです。

物語のラストシーンは、里佳が初めて開くホームパーティ。頭脳と手足を目いっぱい使って料理する里佳の姿は、いっそ「勇敢」と呼びたいほど。周囲の助けを借りることを恥じず、程よい距離感と力でつなぎ合う「心の手」。

女性のたくましさ・したたかさを描くのに、柚木麻子さんほどの適任者はいるでしょうか。手触り感のある生活描写は、柚木さん自身の実体験が生きているのでしょう。この力強い物語が世界各国で称賛の声と共に読まれていることを、日本の読者として誇りに思います。

 

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梅津奏
Writer 梅津奏

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