Paranaviトップ ライフスタイル 暮らし 【小説「喫茶クロス」第11話】繋がる日々、重なる時間

【小説「喫茶クロス」第11話】繋がる日々、重なる時間

SHARE

Xでシェア Facebookでシェア LINEでシェア

俳優業の傍ら執筆にも取り組む奥野翼さんが、複数に分岐していく女性のキャリアとライフステージをテーマに小説を執筆。喫茶店「クロス」を舞台に、正解のない人生を迷いながら歩んでいく女性たちを描きます。
>>前回のお話はこちら

未来への決断

2023年。世の中に活気が戻り始めた頃、正樹さんから一本の電話がかかってきた。声の向こうから聞こえる彼の声は、いつもよりもずっと穏やかで、しかし確固たる決意を秘めているようだった。

「紬さん。急なんだけど、店を畳むことにしたんだ」

一瞬、頭の中が真っ白になった。畳む、というのはつまり、なくなるということ?

この場所が、自分がようやく見つけた居場所が、なくなる?そんなことは、想像すらしたことがなかった。言葉が出ず、ただ息をのむ音だけがスマホを通じて正樹さんに届いた。

「あ……いや、正確には、僕がこの店から離れるんだ。喫茶クロスを、紬さんが未来へ連れていってくれないかな」

正樹さんが言ったのは、閉店ではなく、引き継ぎだった。心臓が跳ね上がる。自分に、この場所を託してくれるというのだろうか。

「僕は、僕の未来を見つけなきゃならないんだ。この店は、僕の好きを形にした場所だけど、今、この場所はむしろ、紬さんの好きで溢れている。だからもう、安心して任せられる。これまでもそうやってくれたんだから。僕の体調不良が続いたことで、色々と考えたんだ。もう紬さんにお渡ししようかな、と」

電話の向こうで正樹さんは笑った。その声が、私が初めてこの店でクッキーを焼いた夜、そして倒れた私に「大丈夫」と声をかけてくれた、あの日の記憶と重なった。

その夜、閉店後の喫茶クロスに、私は一人残っていた。磨き上げたカウンターに肘をつき、ゆっくりと息を吐き出す。静まり返った店内に響くのは、自分の心臓の音だけだ。手元には、正樹さんから託された新しい鍵の束がある。ずっしりと重いその感触が、これから私が背負うものの大きさを物語っていた。

正樹さんが愛したこの場所を、私が守っていくという、確かな決意を胸にあれから数年が経ち、私はここに立っている。これまで大変なことばかりではあったが、その度にここ喫茶クロスのおかげで、私は私でいることができたと思う。

しみじみとそう感じながら、お店の外を見ると、浴衣を着た女子たちが楽しそうに歩いていた。そういえば今日は花火大会の日だった。私は東京で花火を見たことがないから、いつかは見てみたい。そう思ってはまた、気づけば夏が終わってしまう。歳を重ねるにつれて、今やるべきことは本当に今やらないと、いつになってもやらないのだ。そう思うと、正樹さんへの思いや、この気持ちを、溢れるままに言葉にして伝えなくちゃいけないと思った。

ペンとノートを取り出し、紬は書き始める。

私を救ってくれたもの

拝啓、正樹さん

この店を「店長代理」として任されたのは、もうずいぶん前のことになりますね。初めてこの場所に立ったとき、私は「社会の迷子」でした。会社を辞め、自分の存在意義を見失い、ただただ時間だけが過ぎていくのが怖かった。でも、喫茶クロスは、そんな私をこの社会と繋ぎとめてくれました。正樹さんが「好きという感情たちは大切にしなよ。それが自分を救うからね」と言ってくれた言葉を、今でも鮮明に覚えています。

私を救ってくれたのは、喫茶クロスだけではありません。

穂乃果ちゃんのことを話したあの日、私は初めて自分の過去と向き合えました。そして、雨の降った日、スマホの画面に映る「純度100%」という言葉を私と見てくれたあのお客さんの言葉。彼女が推しから受け取った「会いたい人には今すぐ会って、伝えたいことは拙い言葉でも伝えて」というメッセージは、私に後悔ともう一度向き合う勇気をくれました。

そして、幼い命を腕に抱きながら「この世界に受け入れられている」と話してくれたあのお客さんの言葉。彼女の言葉は、私が生きていることの尊さを再確認させてくれたのです。

私がクッキーを焼き始めたのも、そんな人たちから受け取った温かさを、自分の手で誰かに届けたいと思ったからです。最初はただ、正樹さんにもらったあの温かい味を再現したくて。でも今は、お客さんから「紬さんの人柄が詰まってるね」と言ってもらえるようになりました。その言葉を聞くたびに、私の中にずっと眠っていた、誰かを喜ばせたいという小さな希望が、少しずつ、確かな形になっていくのを感じます。

しかし、その日常は突然、終わりを告げました。

2020年。世界中が、見えない不安に包まれたあの年。私たち、ずいぶん大変でしたよね。バイトの子を雇えなくなった静かな店内で、私は何度も、この場所から温かさが消えてしまうのではないかと怖くなりました。様々なメニューのテイクアウトを始め、SNSで店の様子を発信し続けましたが、物理的な距離は、私たちを遠ざけていきましたね。

あの時、私は「人との距離」を初めて真剣に考えました。これまで穂乃果ちゃんの件以来、他人とは深く関わらないように、心の奥にバリアを張っていた私でした。でも、あの時期に強制的に距離ができたからこそ、私は本当に大切なものが何かを、再認識することができたのです。

直接会えなくても、電話やメッセージで「お店に行ける日を楽しみにしている」と伝えてくれる常連さんたちもいました。物理的に離れてしまったからこそ、心はより強く、深く結びついている。この喫茶クロスは、ただの「場所」ではなく、人々の心の中にある温かさそのものだったのです。

私は、この温かさを、未来に残したい。そう強く思うようになりました。

そして、もう一つ、勘違いかもしれませんが、私には分かっていることがあります。

数年前、このお店を探しにやってきた女性のことです。彼女が、「私のことは内緒にしてね」と言ってお店を去ってから、私はずっと、正樹さんがこのお店に注いできた情熱の理由を考えていました。

正樹さんがこのお店を、海外で好きだった店を真似て作ったと話してくれたように、あの店は正樹さんと彼女の思い出が詰まっていたのだと、私も彼女と話して分かりました。その彼女との思い出の場所を、喫茶クロスという形で、また作りたかった。そうじゃないかなと思いました。

そして、先日、遠くからですがお二人をお見かけしました。穏やかな表情で、もう一度、大切な人が傍にいる正樹さんを見て、私は、このお店が正樹さんにとって、ある種の「区切り」になったのだと感じました。

「この店を、未来へ連れていってくれないか」と私に託してくれたのは、もう正樹さんは過去を振り返る必要がなくなり、未来へと歩き出す決意をしたからだと。私にこの場所を託してくれたのは、私なら、正樹さんの大切な思い出を、温かい未来へと繋いでくれると信じてくれたからだと。私なりの解釈ですが、勝手にそう思っています。

昔、緒方さんと夜景が見えるビルでご飯を食べたことがあります。隣で「夜の街に瞬く、たくさんの光。それぞれの光の中に、それぞれの人生がある」と語ってくれました。私にはまだ自分に誇れるものがなく、嘆いてばかりでしたが、あの緒方さんの言葉が、今も心に残っています。私は、このお店を通して、私だけの人生を歩んでいきたい。そして、このお店に来る人々の人生が、交差し、重なり合う場所を作りたい。それができるかもしれない。そう感じています。

正樹さんが築いてきたこのお店を、未来へ繋いでいくことを、どうか見守っていてください。

いつか、この店が、誰かの記憶の一部になるのだとしたら。私は、この場所で受け取ったすべての温かさを、誰かの心に分け与えられるような、そんな場所を作ります。

そして、その第一歩として、このお店の名前を変えたいと思っています。

この「喫茶クロス」という名は、正樹さんと彼女の過去、そして正樹さんの過去と私の今が交差(クロス)した、大切な記憶です。この名前を、過去の思い出として、お返しします。これからは未来を紡いでいきます。

新しい名前は、まだ決まっていません。でも、新しいお店は、正樹さんが見つけてくれた「私」の居場所であり、私が皆さんに分け与えたい「温かさ」が詰まった場所になります。

これからも、この店を、どうぞよろしくお願いいたします。

敬具

槙原紬

SHARE

Xでシェア Facebookでシェア LINEでシェア

Keyword

奥野翼
Writer 奥野翼

VIEW MORE

Page Top