俳優業の傍ら執筆にも取り組む奥野翼さんが、複数に分岐していく女性のキャリアとライフステージをテーマに小説を執筆。喫茶店「クロス」を舞台に、正解のない人生を迷いながら歩んでいく女性たちを描きます。
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再会
2024年 8月18日
靴紐を結びなおして、席を立った。地下鉄の空気は、もわっとして生ぬるく、多方面から夏の匂いを運んできている。貧血持ちの身としては、電車移動でさえも気が抜けない。特に電車を降りてから人混みを搔き分けて歩く時間は、しっかりと地に足をつけて歩かなければならない。朝は鉄分のサプリを飲んだり、夏の暑い日は水分を多めにとったりと色々と対処してきたが、何度もめまいが襲ってきて倒れることがあった。
それは、心に蓋をしていた頃の自分のように、ふいに世界が揺らぎ、足元がおぼつかなくなる感覚だった。でも、もう過去に引きずられる自分とは、ここでさよならを告げたいのだ。だから、立ち上がる前は願掛けのように靴紐を結びなおす習慣がついた。これをやっておけば、地に足をつけて歩ける。倒れない。
心強いおまじないだ。あの頃はまだ分からなかったことが、少しずつ理解できるようになった。時間が経つにつれて、他人事だったはずの事柄が、自分にとって大切なものへと変化していく。まだまだ難しいが、全てが今に繋がっている。
わたしも少しは大人になったかな。
うん、もう大丈夫。わたしには、あのお店があるから。
渋谷駅周辺では今日も様々な工事が進んでいる。久しぶりに来た渋谷は、道路やお店の数だけでなく、外国人の数が増えている気がした。4年前に世界をパンデミックが襲い、終息をたどっていく中で、政策の一環としてビザの手続き簡略化が実施されたことも大きな理由だろう。加えて、日本は円安になり外国人観光客がますます増加している。
スクランブル交差点にあった有名なカフェは改装され、電光掲示板にはAIを使った広告が増えた。ハチ公前は変わらず多くの人で溢れかえっている。ただ、あの頃よく見ていた風景から確実に変化を遂げていた。
今日はハスミさんが満を辞して制作した映画の上映会の日だ。強い日差しを浴びる額の汗を拭い、わたしは会場へと向かった。
喫茶クロスが新装オープンして半年。名前はまだ決まっていないが、お客さんたちからは「新しいクロス」や、「紬ちゃんのお店」と呼ばれている。今日は定休日。久しぶりに喫茶クロスの関係者全員が渋谷に集まる日だった。蓮見香苗(ハスミカナエ)さんの映画が渋谷の映画館で上映されることになったのだ。
タイトルは『濡れて綻(ほころ)ぶ蕾たち』。
ハスミさんの作品は、社会で孤立した人やジェンダーをテーマにした重めの内容だと正樹さんから聞いていたが、彼女の作品はいつも、観た人の心をえぐり、そしてそっと愛で包み込む。そんな作品を創るハスミさんの新作だ。彼女が手掛ける映画の舞台挨拶に、ハスミさんの呼びかけで、正樹さん、緒方さん、奈々さん、沙耶さん、杏奈さん、そして私が集まることになった。
待ち合わせ場所の映画館に着くと、すでに正樹さんが立っていた。正樹さんの隣には、見慣れない女性がいた。上品なワンピースを着た、落ち着いた雰囲気の女性。きっと、栞さんだ。わたしは少し緊張しながら、正樹さんに挨拶をした。
「正樹さん、お久しぶりです。お体の調子はいかがですか?」
「ああ、紬さん、久しぶり。もうすっかり良くなったよ。こちらは、前川栞さん。覚えてるかな?昔からの友人なんだ」
栞さんは、少し照れくさそうに微笑んだ。
「はじめまして。……いいえ、お久しぶり、ですね。あなたには、正樹さんが大変な時、たくさん助けてもらったと聞いています。本当にありがとう」
「いえ、そんな。私の方こそ、このお店を引き継ぐことになって……」
「正樹さんが、あなたなら安心して任せられるって。本当に、よかったわ」
栞さんの言葉に、胸が熱くなった。正樹さんと栞さんの間には、穏やかで温かい空気が流れていた。もう二度と会えないと思っていた二人が、今、こうして隣にいる。わたしは、この光景をずっと見ていたかった。
すると、遠くから沙耶さんの声が聞こえてきた。
「紬ちゃん、お久しぶり!あれ、正樹さんもいる!」
沙耶さんの後ろには、奈々さんと娘のユリちゃんがいた。出会った頃は、生まれて2ヶ月ほどだった女の子はすくすくと成長し、すでに自分の人生を歩む一人の人間になっているように見えた。そして緒方さんが紬に向かって手を振った。少し遅れて杏奈さんもやってきた。相変わらずTシャツの胸元には【Stay Young】の文字が刻まれている。
「みんな、久しぶり!」
ハスミさんは、私たちを前に満面の笑みを浮かべた。彼女は、以前よりもずっと輝いて見えた。
「みんな、集まってくれてありがとう。この映画は、みんなとの出会いがなければ、決して創れなかった作品です」
ハスミさんはそう言って、私たちに深々と頭を下げた。ハスミさんの言葉に、胸の奥が熱くなる。私たちは、喫茶クロスという場所で出会い、それぞれの人生が交差し、影響し合い、そしてまたそれぞれの道へと進んでいった。
——館内が暗くなり、映画が上映された。
一人の女性を通して様々な出会いや別れ、苦悩や葛藤、仕事や育児に向き合う人間のストーリーを映し出すオムニバス映画で、孤独な人々が、誰かと出会い、心の繋がりを見つけ、そしてまた歩き出す。そんな物語だった。最後は、激しく嵐に打たれて濡れた蕾が、分厚い雨雲の隙間から差し込む光を浴びて、蕾が綻ぶ描写で終わった。
「濡れて綻ぶ蕾たち」
スクリーンには、ハスミさんが創り出した愛に満ちた世界が広がっていた。
エンドロールが流れ、映画館が拍手で包まれた。ハスミさんが舞台に上がり、マイクを握る。
「……この映画は、私にとって、とても大切な作品になりました。私は、昔から誰かと一緒にいることが苦手で、一人でいる方が楽でした。でも、喫茶クロスという場所で、私はたくさんの人に出会いました。そして、一人で生きていくことの限界を知りました。誰かと支え合うこと、誰かを想うこと、そして、誰かと一緒に夢を追いかけること。それは、一人でいるよりも、ずっと心を満たしてくれることでした」
ハスミさんの言葉に、わたしはあの日のことを思い出した。ハスミさんが、泣きながら語ってくれたこと。誰にも察されないように、反復練習のように、ずっと演じてきたハスミさんが、誰もいない喫茶クロスで、弱さを初めて見せてくれたあの日。
ハスミさんの言葉は、今、ここにいる私たち全員の心を温かく包み込んでいた。
「この映画は、私たちが誰かと出会うことで、どれだけ人生が豊かになるかを、描いたつもりです。私にとっての喫茶クロスのように、誰かの人生が交差する場所が、この映画を観た人たちの心の中にも、いつかできますように。そして、誰かと出会うことで、何があったとしても、ぐしゃぐしゃに濡れてうちひしがれたとしても、誰もが最後は『濡れて綻ぶ蕾たち』になれますように。今日は、本当にありがとうございました」
ハスミさんはそう言って、舞台を降りた。
この先も、歩いていける
映画館を出て、私たちは夕食をとることにした。話題は、自然と映画のこと、そしてそれぞれの近況に移っていく。
「奈々さん、ユリちゃん大きくなったね。もうすぐ6歳になるんだっけ?」
「うん、もう来年から小学生。少し前までは歩き回って大変だったけど、この子がいてくれるから、毎日が楽しい。この子のためにも、もっと仕事を頑張らないとって思う」
奈々さんは、そう言ってユリちゃんの頭を撫でた。ユリちゃんは、嬉しそうに奈々さんを見つめ、にっこりと笑った。
「そういえば、緒方さんはどうなの?最近猫を飼ったんだよね?」
「あ、そうなの!?いいなー」
「うん。この前、保護猫カフェで出会った子をね。名前は、マメって言うんだ。マメに会うために、毎日早く家に帰りたくて。こんなに誰かを大切にしたいと思ったのは、初めてかもしれない。仕事も、マメが待ってると思うと頑張れるんだ」
緒方さんは、少し照れくさそうに笑った。
「杏奈さんは、最近はどう?推し活は元気?」
「もちろん!最近、新しいバンドを見つけたの。でも、あの頃のバンドも、わたしの心の支えになってる。『人生は続くんだ』って。あの頃は分からなかったけど、あの言葉に何度も救われたよ」
杏奈さんの言葉に、わたしは、あの夜、スマホの画面の中で泣きながら話していた、彼女の姿を思い出した。あの頃の杏奈さんも、今も、誰かを応援することで、自分自身を救っている。
「私も、自分の人生に向き合えるようになりました。正樹さんからお店を任されて、最初は不安で仕方なかったけど、今は、このお店が私の人生そのものなんだって思えるんです。みんなが、このお店に来てくれるから、わたしはわたしでいられる」
わたしがそう言うと、正樹さんは穏やかな表情で言った。
「紬さん、よかったね。本当に」
わたしは、正樹さんの顔を見て、涙が溢れてきた。あの頃自分の人生に絶望していた。でも、正樹さんは、そんなわたしを救ってくれた。そして、喫茶クロスという居場所を与えてくれた。
「正樹さん、喫茶クロスの新しい名前、決まったんです」
私がそう言うと、正樹さんは少し驚いたような顔をした。
……
みんなと別れ、わたしは一人、地下鉄の駅へと向かった。地下鉄の空気は、あの頃と同じように、もわっとして生ぬるい。でも、あの頃とは違う。わたしの足元は、しっかりと地に足がついている。もう、倒れることはない。
駅のホームで、わたしはまた靴紐を結びなおした。これは、おまじない。自分は一人じゃないと、自分を信じるための。そして、一歩踏み出す勇気をくれる、心強いおまじないだ。
わたしは、この先も、ずっと歩いていける。










