「岩手めんこいテレビ」のアナウンサーとして、報道番組を中心に5年間大活躍していた飛田紗里さん。現在は転職して、映画やエンタメの老舗・松竹で新規事業を担当しています。まったく異なる職種へのキャリアチェンジですが、きっかけになったのは「被災地の取材で、エンタメが持つ力を思い知ったこと」だったそう。そんな飛田さんの「芯の強さ」はどこからくるのか、探ってみました。
Contents
就活で挫折しかけるも…初志貫徹で掴んだアナウンサーの夢
――昔から、アナウンサーを目指していたんですか?
物心ついて、最初に持った夢がアナウンサーでした。小学生のときに「めざましテレビ」を見て、小島奈津子さんに憧れて。卒業された時は泣きました(笑)。笑顔が素敵で、みんなを元気にする話し方をされていて、真剣なニュースをしっかり伝える知的さもあって、私もいつかこういう大人になりたいと思っていました。
――大学で、マスコミ志望者が集まるサークルに入られたんですか?
はい。早稲田大学の放送研究会に入りました。部員500人ほどの巨大サークルで、生放送番組をつくったり、早稲田祭のステージで司会・進行をやったりしました。
そこで番組を作る楽しさを知って、TVの世界に入りたいという気持ちがぐっと強くなりました。相手に伝わる言葉を考えるのも、言葉の選び方で相手の反応が変わるのも、全部が面白かったです。
――「番組を作る楽しさ」って、どういうところにあるんでしょうか。
全員が、ちゃんとバトンをつながないとできあがらないところですね。企画を作る人、映像を撮影する人、照明や音声を担当する人、舞台美術を作る人、みんなが力を合わせる必要があります。それでいて司会の進行がうまくいかないと、それが見ている方の第一印象になってしまう。全員が責任をもってバトンをつないでいく、究極のチームプレーだと思います。とくに生放送の緊張感や高揚感は、忘れられない体験でした!
――そして、新卒で無事に「岩手めんこいテレビ」のアナウンサーになったんですね。就活は順調でしたか?
いえ! キー局、札幌、大阪の局と受けましたが、なかなか決まらなくて。地方局ではその土地への知識や愛着も求められるし、私はアナウンサーに向いてないのかも……と、だんだん自信がなくなっていきました。
――それでも諦めなかったのはなぜでしょう?
就活仲間でもあったサークルの友人と話しているうちに、自分で人生を決めてみたい、アナウンサーになりたいという気持ちが強くなっていったんです。大学4年の最後の最後に就活を再開して、「岩手めんこいテレビ」に拾ってもらえたという感じです。
今では、岩手が「大切な場所」になった
――実際に住んでみて、岩手はいかがでしたか?
最高でした! 人が優しくて、食べ物がおいしくて、ホームシック知らずでした(笑)。東京にいるときはあまり感じませんでしたが、ふるさとを思う気持ちも、岩手に住んで初めて芽生えたものです。東京の友達が岩手に来たら、「ここに行ってこれを見てほしい!」「これを食べてほしい!」とおすすめしたいものがたくさんあります。
――お仕事としては、報道担当だったんですか?
アナウンサーをしていた5年間、ずっと報道部にいました。新人のころは警察記者クラブに出入りして、事件の取材を担当することも多かったです。2年目からはグルメやバラエティもやりましたが。この仕事をしているからこその出会いも多く、毎日新鮮でした!
――逆に、辛いことはありましたか?
明るい話題ばかり、ではないことですね。私、東日本大震災の翌年に入社したんです。津波の爪痕が色濃く残る沿岸地域に通いながら、震災報道に携わったり、毎年の3.11特番で全国中継をつないだりしていました。
ただ、私自身は岩手の出身者でもなく、直接被災したわけでもない。どの立場でどういう言葉を使ってお伝えしたら、全国の視聴者の皆さまにわかりやすく、かつ岩手の方に誠実でいられるのか、毎回自問自答していました。岩手を震災前からよく知っているように話してしまうと、ウソになるので。何が正しいのか考えれば考えるほどわからなくなっていき、葛藤していました。
松竹へ転職したのは「エンタメの偉大さを知ったから」
――そうした思いから、松竹へ転職されたんでしょうか?
いちばんの理由は、エンタメの偉大さを知ったからです。当時、避難所に届いた少年漫画を、老若男女問わず多くの人が回し読みしていました。映画の上映会には、近所の方がぎゅうぎゅうに詰めかけたことも……。
またあるときは、岩手県沿岸の海岸で歌舞伎の催しが開かれ、東北各県から人が集まりました。震災以降、海から足が遠のいていた方も多かったと思うので、エンタメが持つ力を改めた感じた出来事でした。エンタメはみんなの元気の源であり、人生に欠かせないものであると思ったんです。
――大きな職種チェンジですが、転職活動はスムーズにいきましたか?
実は、驚くほどとんとん拍子に進みました。面接では、今の自分にできること、これからしていきたいことを正直にお伝えしたと思います。その頃はパワーポイントもエクセルも満足に扱えないほどだったのですが(笑)。松竹に内定をもらって、2017年4月に入社しました。
――松竹ではどんなお仕事を担当してきたんですか?映画とか歌舞伎とか、面白い事業がたくさんありそうです。
最初の2年は、イベントプロデューサーとして、イベントの企画立案から営業、運営、PRまですべて担当させてもらいました。歌舞伎の衣装展や、映画の美術スタッフと制作したお化け屋敷がとくに印象に残っています! 前職のアナウンサーと違い、リアルタイムでお客さんの反応を見られる点は新鮮でうれしかったです。
――今は、新規事業を担当されているそうですね。
2019年に、社内でスタートアップと一緒に新規事業をつくる公募制のプログラムが始まり、ぜひやりたいと思って手を挙げました。スタートアップのみなさんは意思決定のスピード感が速く、自分たちのサービスに対する自信や情熱、モチベーションの高さが想像以上。そういった熱量の高さに、刺激を受けました。
――具体的にどんなことをしたんですか?
映画館とバーチャル空間で「バーチャルライブ」を同時開催したり、古い映画のフィルムをAIできれいに素早く修復できないか試みたり、歌舞伎座のインバウンド向け動画を作ったりしました。 現場は既存業務で忙しいため、実証実験の時間を割いてもらう為の社内調整には苦労しました。それでも実験を進めることができ、現場の理解を得ながら新しい挑戦を形にできた時はうれしかったです。また「誰かと誰か、何かと何かを結びつける」ということが、アナウンサー時代から自分の中で大切にしてきた軸の1つだったので、そこをブレずに注力できている充実感もありました。
一方で、自分の知識不足も痛感しました。スタートアップと松竹、それぞれの強みを生かし、課題を解決する「協業」をするために、スタートアップのビジネスを学びたいと考えていて。縁あって、VC(ベンチャーキャピタル)のANOBAKAに出向することになりました。
異職種から転職してきた私だからこそ、気づけることがある
――ANOBAKAはどんな会社なんですか?
起業間もない起業家を支援する投資会社です。出向期間中は、投資判断に向けての調査や、サービスのブラッシュアップ、事業会社と起業家をつなぐイベントのお手伝いなどをしていました。エンタメだけでなく、医療や教育・食まで、幅広いジャンルを手がけているので、初めは各業界のビジネスモデルを読み解くことにも苦戦しました……。
ただANOBAKAの投資担当の皆さんは、ビジネスモデルやファイナンスの知識はもちろんのこと、起業家1人ひとりとていねいに向き合い、精神面や事業面についてもサポートしているんです。実務だけでなく、仕事の向き合い方やコミュニケーション方法についてもとても勉強になりました。
――いろんな世界を見てこられた飛田さんだからこそできるお仕事が、たくさんありそうですね。
アナウンサーを経て松竹という、少し珍しいキャリアになりました(笑)。だからこそ感じる松竹の魅力があって、松竹のエンタメをもっと多くの人にお楽しみいただきたいと思っています。社内には、歌舞伎や映画など脈々と受け継がれてきた伝統があり、各分野のプロもいますので、私は自分ならではの気づきを忘れずに新しい挑戦をしていきたいです。
――これからの夢や目標はありますか?
オンオフのバランスも考えながら、キャリアをつくっていきたいです。20代はとにかくがむしゃらに働きましたが、長く続けるためには、無理せず楽しく頑張ることが大事だと思うようになりました。今後はロールモデルを探すよりも、私が道筋を切り開いていく立場になりたいなと、最近感じています。
飛田紗里(とびたさり)●1989年、東京都世田谷区出身。小学生の頃からアナウンサーに憧れ、新卒で岩手県のテレビ局に入社。報道番組ほか、情報番組、旅番組、ナレーションなど幅広く担当。2016年FNSアナウンス大賞番組部門賞受賞。2017年4月に松竹に転職。イベントプロデューサーを経て、新規事業開発担当として、社内リソースとXR技術を掛け合わせたコンテンツ制作を経験。2021年ベンチャーキャピタル・ANOBAKAに出向。現在は、バーチャルプロダクション技術を用いたコンテンツ制作、及びスタートアップとの事業連携に取り組む。