2023年4月13日、村上春樹さんの新刊『街とその不確かな壁』が発売になりました。発売日まで内容は非公開だったにもかかわらず、全世界のファンが書店に押し寄せる様子がニュースになっていました。『騎士団長殺し』以来6年ぶりの新作長編小説。代表作である『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を下敷きにしているだけでなく、随所に過去作のエッセンスを感じられる、その内容について早速レビューします。
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新刊発表が社会現象になってしまう小説家
「村上春樹さんが新作長編を発表する―――」
そのニュースが世界を駆け巡ったのは、2023年2月1日のこと。著作は50か国以上の国で翻訳され、新作が発表されればファンではない読者までも巻き込んだ社会現象のような熱狂を巻き起こす、おそらくは世界でいちばん有名な日本作家。発売日の4月13日は、多くのマスメディア・SNSで新刊を買いに走る人々の様子が流れていました。
村上さんは、文芸誌での連載などはせず、書きおろしでしか小説を書かない主義。誰の依頼も受けずに、書きたいタイミングで書き始め、原稿が出来上がったら出版社の担当者に「これいかがですか」と渡す……。そんな都市伝説のような逸話も聴いたことがあります。
3月にはタイトル『街とその不確かな壁』が公開。筋金入りのファンには(幻のような存在だった)非単行本化作品『街と、その不確かな壁』を、一般ファンには『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の設定を想起させます。多くのファンたちが、いったいどんなストーリーが描かれるのか期待と不安で胸いっぱいの状態で発売日を待ちわびていたことでしょう。
「喪失感」に引き裂かれる、2つの自分
「年を取ってくると、あといくつ長編が書けるかと思う。決着をつけたかった」
――読売新聞のインタビューより
40年前に「文学界」に発表された「街と、その不確かな壁」は、「不完全作」として単行本化されない「幻の作品」となっていました。それを大幅に書き直した『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』にも、村上さんはまだ心残りがあったようです。
新作『街とその不確かな壁』は3部構成になっています。
第1部で描かれるのは、「心を交わした人を失った喪失感」。16歳の「私」は1つ年下の女の子と恋に落ちますが、交際の末に彼女はふいに消えてしまい……。彼女の不可思議な失踪を受け止めきれない「私」は心を閉ざし、人生のある瞬間、彼女がずっと「本当のわたしはそこにいる」と語っていた「高い壁に囲まれた街」に足を踏み入れることになります。
「私」は、『ノルウェイの森』の主人公「僕」を彷彿とさせる人物。『1Q84』、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』でも、心に誰かの幻影を抱えた孤独な主人公が登場します。愛した人の幻影を追いやれない主人公は、ストイックなまでのルーティンワークで構築された日常を淡々と生きていく……というのが村上作品における定番の展開。
しかしある日それは臨界点を迎え、「私」は足をすべらすようにして、「高い壁に囲まれた街」という別世界(パラレルワールド)に飛ばされてしまいます。街に入るために影を失った「私」は、そこで再会した彼女と生きていくのか、それとも影とともに街を脱出するのか……。ここまでで第1部は終了。
「あなたの影も遠からず命を落とすでしょう。影が死ねば暗い思いもそこで消え、あとに静寂が訪れるの」
――『街とその不確かな壁』より
村上さんは最初、第1部でこの物語を終了する予定だったそうです。確かに、明確な解決を見せずにストーリーのしっぽを空中に漂わせるのは、村上作品の1つの特徴。第1部まででも、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では示しきれなかった、「現実の私」と「壁の向こうに行った僕」の対比がよりクリアになっていたように感じます。
壁の向こうと、こちら。どちらの側にいる自分も殺すことができず、両方を曖昧に抱えたまま生きている「私」は、多くの読者が村上作品を「これは自分の物語だ」と感じている象徴でもあります。そのフラジャイルさを読者に突きつける第1部はまさに、未完成に終わった過去の作品をより熟練したテクニックで書き直す、という作者の執念を叶えるものだったのではないでしょうか。
「出入りすることの不安」に、勇気を与えようとする第2部・第3部
しかし、「やはりこれだけでは足りない。この物語は更に続くべきだ」(本書あとがきより)という決意のもと、物語は第2部・第3部に続いていきます。
第2部・第3部で「私」は「高い壁に囲まれた街」の記憶を残したまま(影も身につけたまま)、現実世界で40代になっています。脳裏に焼き付いている街の様子、自分がそこで勤めていた街の図書館のあの部屋。そのイメージを持ち続けたまま生きることに限界を感じた「私」は、長年勤務した会社を早期退職し、ツテをたどって福島県の雪深い町にある図書館に勤め始めます。
図書館で出会うのは、スカートを履く元館長の男性、司書の女性、コーヒーショップの店員、ヨットパーカーを着る少年。偶然にたどりついたはずのその土地でもまた、さまざまな境界線のはざまに立つ人々が登場します。彼らと交流しながら、またあの街のことを語り始める「私」。それをこっそり聞いていた意外な人物により、またあの街に行く選択肢が目の前に提示されるのです。
この「あちらとこちらを出入りすること」は、村上さんが過去の作品でも繰り返し採用しているフォーマット。さびれたホテルの一室で羊男に出会ったり(『ダンス・ダンス・ダンス』)、一線を越えたあげく食い破られて人格も人生も乗っ取られたり(『羊をめぐる冒険』)、夢の中で父を殺そうとしたり誰かと性的に交わったり(『海辺のカフカ』『ねじまき鳥クロニクル』等)。
主人公自身が「出入り」をしたり、誰かが「出入り」をするのを追いかけたりというバリエーションはあるものの、いつも村上さんが提示するのが「あちらとこちらでは、どちらが正しいのか/確かなのか/真実なのか」という問い。
ときに、オウム真理教事件(ノンフィクション作品としては『アンダーグラウンド』『約束された場所で』、小説としては『1Q84』)や戦争(中国で戦争を経験した実父について書いた『猫を棄てる 父親について語るとき』、戦争経験者を登場させる小説『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』『騎士団長殺し』)などを強いモチーフとして引用しながら、この2つの世界の成り立ちを何度も描こうとする村上さん。
きっちり伏線を回収するタイプではない村上作品においては、2つの世界を抱えて生きる不安定さがそのまま物語に反映されることがほとんどでした。しかし『スプートニクの恋人』あたりからか、徐々にその不安定さに前向きな希望をつけくわえるようになったように感じています。
「信じることです」
「何を信じるんだろう?」
「誰かが地面であなたを受け止めてくれることです。心の底からそれを信じることです。留保なく、まったく無条件で」――『街とその不確かな壁』より
落下を受け止めてくれるのは、すみれにとっての「僕」(『スプートニクの恋人』)なのか、思慮深い恋人(『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』なのか、もしくは自分自身の「影」なのか。どんなに世界が揺れ動いていても、信じる価値があるものはきっとある。コロナ禍の3年弱の間執筆に集中していたという村上さんが、最後に読者に見せてくれた光のように感じました。
村上春樹が、ノーベル文学賞をとらない理由
最後に、蛇足のようですが書いておきます。
長年話題になり続けている、「村上春樹さんはノーベル文学賞をとれるのか」という議論。村上さんご自身が、この「賞をくれと頼んでもいないのに騒がれる」事態に辟易されているのは、インタビューや著書の中で何度も言及されています。
筆者個人的には、2021年に濱口竜介監督によって映画化された『ドライブ・マイ・カー』を観たときに、「村上作品がノーベル文学賞をとらない理由」が氷解した気がしました。
映画の原作となった『ドライブ・マイ・カー』は短編小説なので、2時間超の映画にするために物語に付け加えられた部分はかなりの割合を占めます。その改変の中でも、「さまざまなバックグラウンドを持つ俳優たちが、多言語(手話含む)による演劇をつくりあげる」という大きなストーリーラインが加えられたことが、本作をアカデミー賞受賞に導いたのではないかと考えます。
「多文化コミュニケーション」という大きなテーマが映画に据えられたことで、初めて作品にグローバルなスケール感が生まれたのではないか。逆に言えば、「世界のためではなく、個人のための物語に徹する」という村上さんの姿勢が、国際文学賞が求める姿と明確にずれがあるのではないかと思うのです。
『街とその不確かな壁』を読んで、その思いをより一層強くしました。村上さんはあくまで、個人的なテーマをより深く・精緻に描くことを自身に課しています。新たな手法や設定は、その「ずっと追い求めているテーマ」を新たに掘り下げるために必要な場合のみ採用され、「新鮮さ」自体を目的にすることはありません。
その徹底した姿勢は、国際文学賞のような世界ではもしかすると「世界観の狭さ」ととらえられるのかもしれません。しかし、これほど多くの人が「これは自分のための物語だ」と信じているというのは、「世界観の深さ」の何よりの証左ではないでしょうか。
村上さんと同じ時代に生き、同じ社会を見て同じ空気を吸って、紡がれた物語をライブで読むことができるというのは、現代人にとっての1つの幸運です。村上作品になじみが薄いという方もぜひこのお祭り騒ぎに便乗し、一度この世界を覗いてみてください。