Paranaviトップ ライフスタイル 暮らし 【小説「喫茶クロス」第1話】「なんとなく」働き出した喫茶店で出会った、交差するいくつかの人生

【小説「喫茶クロス」第1話】「なんとなく」働き出した喫茶店で出会った、交差するいくつかの人生

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俳優業の傍ら執筆にも取り組む奥野翼さんが、複数に分岐していく女性のキャリアとライフステージをテーマに小説を執筆。喫茶店「クロス」を舞台に、正解のない人生を迷いながら歩んでいく女性たちを描きます。

私だけのおまじない

2024年 8月18日

靴紐を結びなおして席を立った。地下鉄の空気は、もわっとして生ぬるく、多方面から夏の匂いを運んできている。貧血持ちの身としては、電車移動でさえも気が抜けない。特に電車を降りてから人混みを搔き分けて歩く時間は、しっかりと地に足をつけて歩かないといけない。朝は鉄分のサプリを飲んだり、夏の暑い日は水分を多めにとったり色々と対処してきたが、何度もめまいが襲ってきて倒れることがあった。原因はそれだけではなさそうだが――といったわけで、立ち上がる前は願掛けのように靴紐を結びなおす習慣がついた。これをやっておけば、地に足をつけて歩ける。倒れない。

心強いおまじないだ。あの頃はまだ分からなかったことが、少しずつ理解できるようになってきた。時間が経つにつれてそれらは大切なものへ変化していく。他人事として捉えるのではなく、自分事として考える。まだまだ難しいがすべてが今に繋がっている。
わたしも少しは大人になったかな。

少し柔らかい、焼きたてのクッキーを食べながら

2018年 7月30日

駅の階段を上って大通り沿いをまっすぐ15分ほど歩くと、大きなガラス窓の外観に、白を基調とした柔らかい雰囲気の、まるでギャラリースペースのような小さなカフェがある。

槙原紬(まきはらつむぎ)は1ヶ月前、この店でバイトを始めた。

大学卒業後、入社した会社は紬が5月の誕生日を迎える前に退職した。約1ヶ月半だった。もう少し頑張ったほうがいいと誰かに助言された気もするが、結果的に自分で決めて退職をした。少し時間ができたので、スマホで登録をしたままずっと放置していた「行きたい店」リストを回ってみたところ、何軒か回った先でスタッフ募集の張り紙を見かけた。幸い忙しい時間ではなかったので、店主がその場で面接の時間を設けてくれた。紬がここに至る事情を話すと、快く受け入れてくれたわけだ。

「普通に会社員になったんですけど、思っていたのと違ったというか。合わなくて辞めちゃったんです。退職して1ヶ月間はいろんなカフェを回っていました。カフェは本当に好きなんです。お店ごとのこだわりと、そこに来ている人たちのゆったりとした時間の流れが。未経験なんですけど、こんな素敵な場所で働けたらいいなと思いまして」

纏まりのつかないまま直談判をしたので、確かこんな感じで働きたいと伝えた気がする。あれだけ面接の練習を大学でやっていたのに、いざというときは何も発揮できてない。そう思って間もなく、店主がわたしを承諾してくれたのだ。実は少し驚いたのを覚えている。

会社を辞めた後の期間は、もちろん再就職を考えて仕事を探してみたり、そんな状況に嫌気がさして嘆いたり、心配をして地元から会いに来てくれた両親に対して、申し訳ない気持ちで押し潰されそうになったり、そもそも本当に私は会社を辞める必要があったのかと考えて眠れぬ夜があったりと、とにかく気持ちに落ち着きがなかった。社会から切り離されたようで、宙ぶらりんだった。

そこで救世主が現れたのだ! 本当にそんな気分だった。心から安心した。この社会で迷子の私にとって、働けるだけで有難い。よかった。

そんな私は今日もこのお気に入りのカフェで働くことができる。スマホの天気予報アプリには35℃の文字と来週の台風情報が映し出された。

「おはようございます!」

「おはよう! 今日も暑いねー。紬さん、これさっき焼きあがったから、よろしくです」

小さな店内にクッキーのバターと小麦粉の香ばしい香りが広がっている。クッキーは冷ますとサクサクとした食感になるので、少しだけ待つ必要がある。店主の正樹(まさき)さんから焼きたてのクッキーを受け取り、紬はそれに見惚れながらゆっくりとカウンターの端のほうへ置いた。本当は焼きたての熱々状態でクッキーを食べてみたい。正樹さんにそんなことを言えるはずもないので、代わりにいつか自分でも作ってやろうと誓った。大きなキッチンで、朝からコーヒーを片手に。自分の家で作ったものだったら焼きたてをそのまま食べることができる。それはいつになるかわからない。だけどワクワクしちゃうな。

嗚呼。あの時。

スタッフ募集の張り紙を見つけたわたし。勇気を出しててよかった。

何かを変えたくてとりあえず行動をしたわたし。褒めてあげなきゃ。よしよし。

熱々のクッキーを食べたいと思うたびに、自分の今いる環境を改めて認識させられるたびに、わたしを取り巻いている不安の渦が晴れていく感覚になる。

大きなガラス窓に差し込む太陽の光が、銀色のエスプレッソマシンに反射している。綺麗に磨かれた透明の薄いグラスを手に取り、氷を2つだけ入れてそこに水を注いで飲み干した。店前は大通りなので、朝から多くの車や人が行き交う。その交差点上にあるこのお店の名は、「喫茶クロス」という。そうか、店名は場所に由来して付けられることもあるんだな。最初に店名を知ったときはなんだか胸が弾んだ。そういった一つひとつの小さな発見が、色を失いかけていた紬の毎日を救ってくれていた。

名付け親の店主、正樹さんは地元がこの辺りで、20代前半から35歳になるまで海外を旅して過ごしてきたらしい。旅の途中で出会ったバリスタの日本人に誘われてコーヒーを学び始めた。海外で得た様々な知識と経験を持ち寄って帰国し、数年前に自身の地元、この何の変哲もない東京都世田谷区の住宅地で店を出した。正樹さんが海外に居た頃に好きだったお店は、まさに大通り沿いの路面店で大きな窓ガラスに白い内装だったらしい。全部真似してみたんだ。いいってことよ。正樹さんは笑っていた。そしてよく、「好きという感情たちは大切にしなよ。それらが自分を救うからね」と言っている。まさに経験値が高い人特有の、重みがある言葉だ。大きな喉仏の奥から響く低い声がその説得力を増してくる。

喫茶クロスは、そんな正樹さんの人柄の良さに引き寄せられるように、常連のお客さんが多く訪れるお店だ。ここでは数多くの出会いと別れが繰り広げられ、人びとが影響を受けあって人生を進めている。日々のあれこれを話しては改善へ向かうために有意義な会話をしたりしなかったり。皆それぞれの世界を生きている日々の中で、交差し交わるひとときが、この場所には確かにある。

今日は月曜日のお昼。彼女がそろそろ現れる時間帯だ。紬が働き始めて最初に親しくなった常連のハスミさんは毎週この時間に来てくれる。いつも面白い話題を持ってきてくれるので、紬にとって密かな楽しみの曜日である。

今日はどんな話をしてくれるのだろうか。

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奥野翼
Writer 奥野翼

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