俳優業の傍ら執筆にも取り組む奥野翼さんが、複数に分岐していく女性のキャリアとライフステージをテーマに小説を執筆。喫茶店「クロス」を舞台に、正解のない人生を迷いながら歩んでいく女性たちを描きます。
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まだ遠い未来の話
2018年 8月1日
昼下がりの喫茶クロス。陽が差し込む店内で紬(つむぎ)は、ドリップコーヒーを作る正樹(まさき)さんの手元をじっと見つめる。ゆっくりと円を描くようにお湯を入れ、少し待ってまたゆっくりとお湯を入れる。それを数回に分けてコーヒーを作る。コーヒーを淹れるときの所作や、その大きな手が、見惚れるほど美しいなと思った。
日々の喧騒や移り変わりの激しい世の中だからこそ、コーヒーを淹れる沈黙の数分間がわたしは好きだ。正樹さんを見ながら、その香りに神経を寄せてみる。いい香りだ。わたしにはまだ知らない世界が山ほどあるなと思う。まるで自分が生まれて間もない赤子のように、見ている世界すべてが新鮮に思える。
大切に育てたドリップコーヒーを、店の端のほうで話すカップルへ差し出した。正樹さんはカップルにコーヒーの説明をしたのち、エプロンを取ってせかせかと準備を始め、20分ほどお店を空けると言い郵便局へ行ってしまった。コーヒーの香りが充満する静かな店内で、カップルの声が微かに響く。
「この前だってお金が理由で旅行を諦めたじゃん。自分のやりたいことを優先するのはいいけど、同じように私との将来も考えてほしいな。私はもうすぐ30歳なんだから。そんなに待てないよ」
「もちろん二人の将来は大切だし、結婚するためにはお金が必要だろう? そのためにも仕事を頑張らないといけないんだ。今はまだ頼りないかもしれないけど、ちゃんと考えているよ」
「結婚とか子どもはお金がかかるの。私はあなたを応援したいけど、私も経済的に不安があるし」
下を向いて彼女が言うと、それを覗き込むようにして彼氏は、
「じゃあ例えば、毎月1万円ずつでも二人で貯金していく方法もあるよ。難しかったら5千円の月があってもいい。今からできるコツコツした貯金が、いずれ子どもの進学とかに充てることができる。できないって諦めるよりも、違う道を一緒に探そう」
真剣に話す姿を見ながら、紬にはまだ遠い未来の話だなと感じた。そもそも結婚や子どものことを考えることがない。こんなに真っ直ぐに人と付き合ったことすらない。
「俺も、頑張るから。一緒に頑張ろう」彼がそう言うと、その話題は終わったのか、二人はまた違う話をし始めた。互いを分かり合いたいという気持ちが、温かく店内に充満している感覚だ。白色の店内を陽の光が包み込む。心地のいい気分に浸っていると、入口のガラス扉が開いた。
かけがえのないもの
「こんにちは。あ、正樹さんは今日いますか?」
長い髪の毛をひとつに結んだ女性が、赤ちゃんを大事に抱えてやってきた。まだこの世界に降り立ったばかりの子だ。眠そうな目を母親に向けて、大きくあくびをした。外出中ですけど、もうすぐ帰ってくると思います。紬がそう言った時、既に正樹さんが入口に立っていた。
「奈々さん? お久しぶりだね。無事に生まれたんですね。よかった」
「久しぶりです! はい、無事。2ヶ月経ちました」
正樹さんの表情が我が子を見るように、コーヒーを淹れるときの真剣な目つきとはまるで違うものになった。
話を聞くと、32歳の鍵谷 奈々(かぎや なな)さんと正樹さんは5年前からの仲らしい。職場の3つ上の先輩と30歳で結婚し、結婚後ほどなくして子どもを授かって、2ヶ月前に出産したんだという。
「あんなに仕事、仕事だった奈々さんが、今はお母さんか。感動しちゃうな、お名前は?」
「ユリちゃんです、女の子。ほら、まさきさんですよ~」
正樹さんの大きな手が、赤ちゃんの頭に触れ、そしてお腹をくすぐる。奈々さんにはノンカフェインの温かい紅茶を出してあげて。そう言って正樹さんは奈々さんの隣に座った。
「どう? 体調のほうは」
「だいぶ良くなってきました。里帰り出産していたので両親に甘えっぱなし。やっぱり親の支えは有難いですよね。私もこれからはママとして頑張ろうって思います」
帝王切開の傷が少し痛むが、お宮参りなども済ませ、やっと東京へ戻ってきたらしい。
「もう少し実家に居なよって母親に言われたんだけど、流石にそんなに甘えられなくてね。旦那は東京で仕事してくれているし、夫婦で苦労してでも育てなくちゃだめな気がして。有難いことに、東京で少しずつ仕事を復帰させてもらっているから。少しずつでも休んだ分を取り戻したいじゃん」
そう言って紬にも笑顔で接してくれる。強いな。紬はそう思った。自分の人生設計を早々に挫折したようなわたしは、こんなに強くいられるだろうか。奈々さんは続けて喋ってくれた。
「実家にいるときに久しぶりに弟と会ったの。なんだか弟が叔父さんになることに感動しちゃって。私たちも年取ったんだねって二人でしみじみしてたなー」
子どもが産まれると自分を取り巻くすべての環境が大きく変わる。奈々さんの話を聞きながらそう思う。だからこそ、さっきのカップルのようにお金の心配や仕事のことを真剣に考えていかねばいけないのだろう。ひとりの命をこれから二人で育てると決めた奈々さん夫婦も、それに向き合ってこれから生きていくのだ。
「自分が母親になるなんて、想像もしてなかったよ」
「そうなんですか?」
紬は拍子抜けしたように声が出ていた。
「今まで公園で子持ちの母親を見ても、平日の朝に幼稚園に送り迎えをする人たちを見ても、わたしには遠い世界の話だと思っていたの。子どもを授かることはそんなに簡単じゃないから。いざ自分が妊娠した時も実感はほとんどなかったもん。妊娠が判明して、自分じゃない誰かが喜んでくれたことが嬉しかったなー」
奈々さんは新たな命を腕に抱え、嬉しそうに話してくれている。
「変な質問かもしれないですけど、赤ちゃんが産まれたとき、どう思いました?」
少し間があいて、奈々さんはまた嬉しそうに答える。隣にいる正樹さんはじっと見つめてそれに耳を傾ける。
「この世に産まれることって、実は誰もが通ったはずの道なのにそれを誰も覚えていない。その瞬間に私は母として立ち会ったから思うことだけど、産まれることで、すべてが完了していると思うの。伝え方が難しいね。人間生きていたら色々あるけど、赤ちゃんが産声を上げた瞬間、そこに居た人みんなが笑顔になったの。それはつまり、あなたはもうこの世界に受け入れられているってことだと思った。
個人的には、これまで培ったキャリアが崩れることが怖くなったり、そもそも職場への復帰ができるのか、命を育みながら生活を守ることとか、どうなるか分からない未来に恐怖していた気持ちがあったけど、すべてがもう大丈夫に思えた。これからがどんな困難があっても、私のすべてを以って尽くしたいと思えた。それほどかけがえのない存在に出会えたの。なんだか、泣けちゃうよ。
実は、この子が生まれる3日前に祖母が亡くなったの。おばあちゃん子だった私だからすごく悲しかった。最後に会いに行ったとき、祖母が目を開けて私を見て微笑んでくれたんだ。私が産まれたときから傍で育ててくれていた祖母の愛を、最後にまた受け取ることができてよかった。その愛を今度は私の娘に託す必要があるとさえ思った。そうやって人の人生は廻るんだよね、不思議だけど」
そう言って口角を少し上げる奈々さんはとても可愛く、そして芯が通った女性としてそこに存在していた。この世界の人たちがみんな、産まれる瞬間は人々に祝福され、最後は悔やまれて土に還る。そんな世界がちゃんとここにあることに、紬はハッと気付かされて、また胸が熱くなった。温かく包み込むこの世界を信じてみたくなった。