俳優業の傍ら執筆にも取り組む奥野翼さんが、複数に分岐していく女性のキャリアとライフステージをテーマに小説を執筆。喫茶店「クロス」を舞台に、正解のない人生を迷いながら歩んでいく女性たちを描きます。
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Contents
紬と穂乃果の学生時代
高校2年生の冬
年が明け2月のバレンタインが近い日、穂乃果ちゃんと初めて買い物に出かけることになり、住んでいるところからは離れた場所にある大きなショッピングモールへ向かった。「女子高生らしいことがしたい」と、なんとも真っ直ぐなお願いだった。ゲーセンに行ってプリクラを撮ったり、洋服屋を回って歩いたり、お腹が空いたのでフードコートにあるたこ焼きとうどんを二人で食べながら、あそこの店員さんは何歳くらいかなとか喋った。
3年生になれば受験で忙しくなるから、こうやって遊ぶことは減っちゃうかもね。と私が言うと、そうだね。とだけ言って穂乃果ちゃんは冷たいメロンソーダを飲んだ。少しだけ心配にはなったが、これで学校にも来てくれるだろうと淡い期待を持ったのも確かだった。一緒にいるときは笑っていたし、将来の話をするときも、結婚や子どもの話をするときも、それを自分も想像しているような表情でいたので、私は思わず穂乃果ちゃんを見つめて
「私たち、幸せになろうね」
と言った。穂乃果ちゃんは一瞬下を見た後に、冷め切ったたこ焼きのタコを取り出してまた、「幸せになろうね」と笑った。今度は2人で目を合わせて一緒に
「私たち、幸せになろうね」と言って、面白くなって笑った。
2人の間には、食べかけのうどんとたこ焼きが無秩序に置かれていた。
その日を境に穂乃果ちゃんは学校へ来るようになった。学校では、3年生の卒業式のために予行練習が何度も行われ、何かとせわしない時期だったので、穂乃果ちゃんの悪い噂はとっくに無くなっていた。そのこともあり穂乃果ちゃんは元気を取り戻していた気がした。
高校3年生の夏
新学期が始まり夏を迎え進路を決める頃、それまでは地元の公立大学へ進学するつもりだった紬は、東京の大学へ進学することを決めた。紛れもなく、穂乃果ちゃんが理由だった。放課後、紬に訊いてきた。
「紬ちゃんは将来やりたいこと、あるん?」
「そうだなあ。正直何も浮かばないんだよね。近くの公立大学に行って、そのまま就職するんだと思う。ほら、あのショッピングモールで見たチョコ屋さんでもいいな」
特別何かに秀でているわけでもないし、かといって勉強を頑張ってまで行きたい学校が紬には全くといっていいほどなかった。それならば、近くの公立大学へ進学をして実家から通う方がいい。隣を歩く穂乃果ちゃんがいたずらな顔で、ぷぷっと笑った。
「笑わないでよー! いいでしょ別に。穂乃果ちゃんこそ、やりたいことあるの?」
「ごめんごめん。紬ちゃんらしいな。私はね、美大に行く。東京の」
びだい?と、唖然とした顔をする紬に、彼女は意気揚々と説明をしてくれた。紬は驚いたり、へー!と口にしながら、穂乃果ちゃんの話に吸い込まれていた。夏空の夕焼けが富士山の奥でやけに赤く燃えていた。
穂乃果ちゃんは絵を描いたり創作をしたいらしい。その学校は東京では有名な美術大学だった。実はもう、特待制度についてのリサーチも済んでいて、勉強の質もさらに上げているという。奨学金を貰うために必要な準備や、入試に向けた対策、それらすべてが大変ではあるが、自分の人生を動かそうとしている今が充実しているとも語ってくれた。喜ばしい彼女の夢への道のはずだが、紬は仲の良い友人が遠くへ行く未来を恐怖に感じた。
この時初めて紬にも目標ができた。穂乃果ちゃんが東京へ行くのなら、自分も勉強をして東京の大学に行きたい。同じ大学へ進学できなくとも、近い大学は探せばあった。穂乃果ちゃんと別れた後、東京の大学を調べ、紬でも目指せそうな大学をピンポイントで見つけた。彼女と離れたくないという強烈な想いを何とか隠しながら、夜ご飯のあと、両親へ私も目標ができたから東京の大学を受験したいと話をしてみた。
紬は自分の進む道さえ認識すれば、それなりに頑張れた。いちばん近くで将来を掴み取ろうと奮闘する彼女への憧れと尊敬が、紬を奮い立たせてくれたのだ。成績が伸びずに悩んでいる苦悩も、勉強をする時の眠気も、穂乃果ちゃんと離れ離れになるよりはマシだ。そう思いながら、充実感という実態を初めて胸に染み込ませることが出来た高校生活。私はこの先もずっと、2人の間を流れる時間が永遠のものだと思っていた。
そして私たちは無事、東京の大学へ進学できた。
東京での大学生活
期待を胸いっぱいに抱えて上京をした私だったが、距離はむしろ遠のくばかりだった。穂乃果ちゃんは大学の寮で友達ができたとか、授業は難しいけど楽しいから、私は頑張って芸術家になるんだとか、電話ではよく話をしてくれていた。バイトを始めた紬も、何かと忙しい毎日を過ごしていたので、入学当初よりは連絡の頻度が減っていたが、それでも穂乃果ちゃんと会える日を楽しみに頑張れた。夏に完結する漫画を一緒に見てみようと約束したからだ。
しかし次第に、穂乃果ちゃんからの連絡も減っていた。美大の課題が忙しいのだろうと深く考えなかったが、思えば少し前の電話も、どこか元気がなかった。「大丈夫?」と聞くと、「うん、ちょっと疲れてるだけ」と笑っていた。けれど、そこからは短いメッセージがぽつぽつと届くだけになり、その後の1週間は完全に連絡が途絶えた。
じめじめとした梅雨の夜、スマホに映るニュース記事を開くと、そこには事務的な文体で「本日未明、美大生の女性が豊島区のビルから女性が転落し死亡」とだけ書かれていた。名前を見る。穂乃果ちゃんだった。指先が震えてる。何かの間違いだ、別人だ、と何度も記事を読み返すが、そこには確かに穂乃果ちゃんが通う大学名が書かれていた。
咄嗟に電話を掛ける、コール音が響く。応答はない。「お願い、出てよ……」掠れた声が紬の狭い部屋を突き刺す。もう一度、もう一度、と繰り返しかけ続けるが、ただ冷たいアナウンスが流れるだけだった。息が詰まり、呼吸が荒くなり、足元がぐらぐらと揺れた。どうして。どうして。声にならない言葉が延々と頭に浮かぶ。
どうしてあのとき、もっと強く聞かなかったのだろう。「疲れてるだけ」なんて、そんなはずがなかったのに。最期に話した声を思い出そうとするのに、はっきりと思い出せない。代わりに、ニュース記事の無機質な文字だけが脳裏に焼き付いて離れない。
もし、最後の1週間、何か言葉をかけていたら。もしあの日、無理にでも会いに行っていたら。考えてももう遅いが、後悔だけが胸の奥で膨らみ続けていった。
誰かを救える人でいたい
背中はふかふかとして、おでこが温かい。お湯で濡らしたタオルを正樹さんが乗せて看病してくれていた。床にはクッションが敷かれていた。
「紬さん、気分はどう?」
「すみません。私……」
「謝らなくていいよ。紬さん、大丈夫?」
大丈夫と聞かれると反射的に大丈夫と言う癖がついていたが、今この瞬間だけは、正直に心の内を正樹さんに明かしても受け入れてくれる気がした。
「大丈夫ではないかもしれません。私、ほんとたまにパニックになっちゃうときがあって。訳も分からず呼吸が荒くなって倒れちゃったりすることが……元々貧血持ちなのでどちらか分からないけど」
言葉がなかなか出てこない。
「思い出したくなかったらいいけど、何かつらいことがあったの?」正樹さんは目線を合わせて座って聞いてくれている。
「私のせいなんです。私が無理矢理、押し付けたから。そして見たくないものは見ようとしなかったから。穂乃果ちゃんは……あの子はもしかしたらずっと、助けを求めていたのかもしれないのに。私は何もできなかったんです。見て見ぬふりをした私が悪いんです」
秩序よく保っていた私の感情たちが、バタバタと崩れ落ちていく音だけが店内に響いた。それらをひとつひとつ拾い上げるように正樹さんは言葉を発した。
「紬さんが何があったか本当のことは理解できないけど、自分を責めないで。その、ほのかちゃん? お友達はそんなこと思わないはずだよ」
あの日を境に人と接するときは、きまって霧のカーテンが掛かったようで、心の底から相手を想いたくても怖くてできない。東京で仕事を始めて満員電車に乗る度に、人との距離感が分からなくなり何度も何度も気を失った。会社での出勤率の悪さと社内の人の目にも耐え切れず辞めてしまった。穂乃果ちゃんが自殺したことを聞いた時、確かに悲しかったのに、涙を流すことは一度もなかった。いっそ赤ん坊のように泣き喚いてみたかったができなかった。それと同時に苛立ちや自分への嫌悪感が募り、時たまこうして頭がショートしてしまう。いわゆる、パニックを起こしてしまうのだ。
穂乃果ちゃんのことを話した後、驚いた顔をしたがすぐに正樹さんはゆっくり丁寧に話し始めた。
「仲良しだったんだね。その子と。紬さん、無理しないでいい。話したいことがあればいつでも聞くから。そして紬さんの名前のように、ほつれた糸をひとつひとつ結びなおすように、ゆっくり時間をかけて向き合えばいいんだよ。僕は、そんな紬さんを見守っています。だから大丈夫」
正樹さんの言葉だけに全神経を傾けていると、塞き止められていたダムから水が放流されるように止まらない涙が流れていた。喫茶クロスが浸水するんじゃないかと思うくらいの涙だった。この身体から溢れ出す涙の一粒それぞれに、穂乃果ちゃんへの後悔と申し訳ない気持ちが込められ、それが次第に穂乃果ちゃんの笑顔の記憶へと変わっていく。有り余るほどの感謝の思い出がこの一粒ずつに込められ川を作った。
「紬さんも、幸せになろうね」
正樹さんがそう言って差し出してくれた手には、焼きたてのクッキーが2枚入っていた。気付けば外は真っ暗で、あの夜に飛び降りた穂乃果ちゃんがこっちを見て笑っているような気がした。