俳優業の傍ら執筆にも取り組む奥野翼さんが、複数に分岐していく女性のキャリアとライフステージをテーマに小説を執筆。喫茶店「クロス」を舞台に、正解のない人生を迷いながら歩んでいく女性たちを描きます。
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Contents
あの店の面影
2018年 10月7日
何かが大きく変わり始めている。
そんな気がするのは、正樹さんにお店を任された最初の1週間の間で、私一人では抱えきれないほど多くの出来事があったからだろうか。全てを乗り越えたわけではない、だけどどこか肩の荷が降りたような感覚がある。
少しずつだが、店での一人営業にも慣れてきた。手が震えることも減り、エスプレッソマシンの銀色の輝きが、ようやく紬に優しく映るようになった。今日もきっと、一日を乗り越えられる。そんな小さな確信が、日々胸の中に芽生え始めていた。
正樹さんが入院をして、ちょうど2週間が経った日のこと。昼下がりの営業中、喫茶クロスのガラス扉が開いた。秋の風と共に現れたのは、見慣れない一人の女性だった。正樹さんと同世代か、少し下くらいだろうか。落ち着いた雰囲気の中に、どこか遠くを見るような、憂いを帯びた瞳をしていた。彼女の視線は、店内の隅々を、何かを探すようにゆっくりと巡っている。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?」
紬が尋ねると、彼女はふと我に返ったように、カウンターに近づいてきた。
「ええ、ホットコーヒーをひとつ。あの、正樹さんは、いらっしゃらないのですね」
その声には、微かな期待をもった響きがあった。一瞬躊躇した紬をみて何か察したのか、女性はじっと紬を見て離さない。正樹さんの病状は、お客様に話すべきではないと暗に言われていたが、彼女の瞳があまりにも真剣だったので、紬は軽く息を吸い込んで話した。
「正樹さんは今、少し体調を崩しまして……入院しております」
告げた瞬間、彼女の顔色が変わった。驚きと、信じられないというような表情が混じり合う。この言葉は、彼女にとって、予想外の重さを持っていたようだ。
「入院……そうですか……」
絞り出すような声だった。
紬は言葉を選びながら、正樹さんの容体が順調に回復に向かっていることだけを付け加えた。彼女は静かに頷き、コーヒーを一口飲むと、窓の外に視線を向ける。
「ここ……本当にいい店ですね。温かくて……正樹さんが、ずっと昔から、こんなお店を持ちたいと話していたことを思い出すわ」
彼女の唐突な話に、紬は小さく息を漏らした。
紬が聞いた正樹さんからの話は、海外での経験を活かして、地元世田谷で自分のお店を開いたということ。海外にいた20代当時、好きだったお店が大通り沿いの路面店だったこと。大きな窓ガラスに白い内装なので、それを全部真似してみた。ということだった。
“全部真似してみたんだ、いいってことよ”
“好きという感情たちは大切にしなよ。それらが自分を救うからね”
紬が働き始めた当初、正樹さんは笑いながらそう言っていた。そして今、目の前の女性は、正樹さんのもっと深いところまで知っているように見える。お店をじっくりと見回す彼女の瞳には、遠い日の思い出と、決して届かない場所への切ない想いが宿っているようだった。
「あの、正樹さんのご友人ですか?」
私は勇気を出して訊いた。
「……ええ。もう15年くらい前になるんですけど、海外にいたときに出会ったんです。あの頃は大変なことがたくさんあって、だけどそんなときに正樹さんがいてくれたおかげで、私は頑張れたの。……あ、すみません急にこんな話を。自己紹介もしないで。私、前川栞(まえかわしおり)です。よろしくね」
「あ、よろしくお願いします!紬といいます」
「紬ちゃん?いい名前だね」
「ありがとうございます、嬉しいです!……あの、正樹さんがこのお店は、好きだったお店を真似して作ったって言ってました。そのお店も知っていますか?」
栞さんの目には過去が浮かび、一瞬の間ができた。
「……もちろん知っているよ。正樹さんとよく行ってたイタリアのフィレンツェにあるお店だと思う」
「そうなんですか……!でもどうやって、このお店を見つけてくれたんですか?」
そう言うと、栞さんは手元のスマホを見せながら話を続けた。
「ほら、映像クリエイターの蓮見香苗さんって方。よくここに来てるでしょ?彼女の作品が好きでなんとなくSNSを見ていたら、このお店が載ってて、どこか懐かしい気持ちになったの。海外でよく行ってたお店の面影に繋がりを感じたんだと思う。気になって調べてみたら、まさか正樹さんのお店だったなんて……。やっぱりそうだったのね。彼が元気なうちに、もっと早く来たらよかった……」
そう言うと、栞さんはコーヒーをぐいっと飲み込んだ。隠しきれない言葉や感情たちを、無理矢理に胸に押し込んだようにも見えた。澄んだ秋空から覗く陽の光に照らされ、栞さんの薬指にある指輪が綺麗に輝いた。
「この近くの大学病院に行けば、正樹さんと会えます。今からでも会えますよ」
栞さんの目を、今度は紬がまっすぐ見つめた。会えますよ。その言葉には無責任さもあるだろうと不安もあったが、それ以上に、今会える人とは今会わなくちゃ。そう思った。ありがとうやごめんなさいを言う前に、会えなくなっちゃうことの方がよっぽど後悔する。栞さんにとって正樹さんはとても大切な人だったはずに違いない。今少し話をしただけでも、紬はそれがわかったような気がした。
それでも栞さんは、私が来たことは内緒にしといてね。と念押しした。紬は何も言えず、そのままお店を後にする栞さんの背中を見つめることしかできなかった。
その日の営業後、正樹さんの病院から電話がありすぐに病院へと向かった。病室に着くと、正樹さんは以前よりずっと穏やかな顔で私を迎えた。
「わざわざ悪いね、紬ちゃん。急に呼んで」
容体は順調に回復へと向かっているらしい。だが、もう少し時間がかかりそうなので、10月末頃までは喫茶クロスを私に任せたいという。
「11月からは店に顔を出すつもりだけど、ほとんど何もできないだろうから、全て任せることになる。本当に申し訳ないけど、お願いできるかな。たくさん迷惑をかけてすまない。紬ちゃんのおかげで、本当に助かっている。ありがとう」
その言葉は、私への信頼に満ちていた。私は迷わず頷いた。
栞さんのことを訊きたくなったが、今は正樹さんの大切な、そして自分自身にとっても大切な、喫茶クロスを守ることだけを胸に誓い、言葉は飲み込んだ。
理想の味
2018年 11月29日
冬の気配が深まり、木枯らしが街路樹の枝を揺らす季節。正樹さんは週に2度、喫茶クロスに立つようになった。温かく穏やかな口調で、コーヒーの淹れ方や接客のコツを紬に教えながらも、その合間を縫うように、精力的に外部での営業活動を進めている。喫茶クロスの灯りを絶やさぬよう、その一瞬一瞬を大切に生きているのだ。
紬もまた、自分の居場所を見つけたかのように、日々を積み重ねていた。淹れたてのコーヒーや焼きたてのクッキーの香りが充満する店内、常連客や新しい客からの「美味しくなったね」「次も楽しみにしてるよ」という言葉が、何よりの励みになった。誰かを自分の手で喜ばせたい。そんな願いが、ゆっくりと形になり始めていた。まるで深い霧の中をさまよっていた道に、一筋の光が差し込んだような心地がする。
自宅で試作を重ねるクッキーは、少しずつ理想の味に近づいていく。コーヒー豆の仕入れも正樹さんに教わり、業界で奮闘する多くの人々と出会った。誰もが自分の信じる道を、大切にしたいものを胸に、懸命に人生を切り拓いている。その姿は、紬の心にも静かな情熱を灯した。
ある開店前の時間、正樹さんが真剣な面持ちで紬に切り出した。
「いつも本当に助かっている。僕が店を離れている間、この場所を、そしてお客さんたちを守ってくれて、心から感謝している。これからは、もっと喫茶クロスを外に広げていきたいんだ。だから、バイトさんを二人採用しようと思う。紬ちゃんには、店長代理として、この店を支えてほしい。僕は、もっと別の形で店を盛り上げていく。来年からは、新しい体制で良いスタートを切りたいんだ。ぜひ、力を貸してほしい」
正樹さんの言葉に、紬の胸には熱い想いがこみ上げる。迷うことなく、真っ直ぐな瞳で答えた。
「はい、私、頑張ります!」
その日の営業後、二人は焼肉店へと向かった。炭火の匂いが食欲をそそり、楽しく語り合う声が店内に響いた。
5文字の贈り物
2019年 1月31日
年が明け、真冬の寒さが身にしみる日だった。
閉店間際、喫茶クロスに現れたのはハスミさんだった。
久しぶりに会うハスミさんの髪は、以前よりもさらに長く伸び、肩を越えていた。あのとき、映画の制作が順調に進んでいると聞いていたはずなのに、表情には明らかに疲れの色が浮かんでいる。仕事仲間との意見の衝突、そして自身の表現や脚本に納得がいかず、結局、制作は延期になったらしい。元気をなくしているのが痛いほど伝わってきて、紬は心配になった。それでも、やはり彼女は強い人だ。手探りの中で何が譲れないのかを必死に考え、生きている。
ハスミさんは、温かいコーヒーをゆっくりと飲み干し、静かに語り始めた。
「正樹さんが大変なとき、つむちゃんがこの店を守ってくれてたのね。立派だよ。あーあ。私、何やってんだろうね。誰かと一緒に仕事をするのは大変だけど、それ以上に、自分一人じゃ決して味わえない経験ができるし、想像もしなかった景色が見れるって、知っていたはずなのに。……よし、決めた。私も頑張るよ。また一から作品を創る。今度こそ、出来上がったら、観に来てね」
ハスミさんはそう言い残し、店を出た。寒そうに首元に巻かれた真っ赤なマフラーが、冬の夜に鮮やかに映える。振り返った彼女は、白い息を大きく吐きながら、唇をゆっくりと動かした。
「あ り が と う」










